朝倉の占部氏(3)
2014.11.05

前回『郷土高木の史蹟と伝説』という本を甘木図書館で見つけた話をしましたが、その著者林正夫さんは残念ながら故人でした。実は書中の大城長者の話は、正夫さんが林輝雄さんという方から聞き取った話で、林輝雄さんは高木神社の宮司さんでした。この一帯はもともと英彦山の領地で、周辺には高木神社が数多くあるのです。

自費出版なのか寄贈されたもので、誰でも手に取ることができるという数のものでもないようです。一応記事の一部だけですが以下に抜粋しておくことにします。


林正夫氏著

一.占部氏の家系譜について

高木の大城と言えば、高木現住の人だちの中でも行ったことがないという人が可成りある程の山奥である。今日では大城開拓団の人だちが七・八戸入植されているので人家も点在しているが、数年前までは占部氏を名乗る家が三軒と高橋姓が一軒だけの淋しいところであったのである。

でも、高木町の軽井沢とも言える高原地帯で、黒川のバス停留所から約五キロの山道を行けば一望千里、眼下に筑後川の清流をながめ、はるかに耳納連山の美しい姿に接することが出来、東から南、南から西とその雄大なる自然美の中に杷木町、吉井町、浮羽町などの繁華街や湯煙立つ原鶴ののどかな景に、さながら天国に居る感すら沸くのである。

「人里はなれた山の中に四軒の人だちがどうして住みついたのだろうか。」「大城という山里に珍らしい名称が、どうした由来で生まれたのだろう。」

私はかつて代診として診療所に務めていた時から再三訪れた占部氏の人だちと語り合ったものであるが、はからずもこの大城の占部氏が彼の有名な宗像大社と因縁浅からぬ家柄であることを知ると共に、占部氏大城移住当時から数代(五代後か)の間、大城長者として近隣にその富豪を以て知られたことなどを聞き、詳細に調査すべく手をかけたが、別項のごとく両占部家に残る家系図とそれに関して林輝雄氏(占部芳兵衛氏甥)の調査手記、並びに私が現宗像大社宮司宗像辰美氏にお願いした手紙に対するお返事より考察してのことのみに終わったことは誠に遺憾で、いづれの日か、より詳しく占部氏家系について調査を進め、合わせて変転極まりなかった当時の世相の研究をしてみたいと思っている。

㈠占部家の大城移住経過について 林輝雄(談)

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前半省略・・・)
注)末安は正しくは末保と思われるが原文のまま掲載する

黒田氏が筑前に移住するにあたり、末安、利安二代に亘って黒田公に仕え、末安は島原の乱にも武功があったと記されていますが、なぜか間もなく上座郡の総庄屋古賀家にのがれ、総庄屋より当時の黒川の庄屋であった藪の豊島家(今はない)に適当な隠住の地を依頼、現在の大城に一門をひきいて移住したもので、家譜にも二十四代九郎次が大城移住最初の人として記され、大城長者と称された事もきき伝えている。伯父たちの話でも莫大な財宝金銀を所有していたのではないかと察せられます。

大城長者としての名残りとして、今日でも各部落の所名に「倉の下」というのがありますが、それは当時大城長者に納める年供米を入れた倉があったところの下という意味で、倉床という地名もこれに関するものと考えられます。

この様に近隣になりひびいた大城長者が、何故に落ちぶれたか、現在の伯父たちにも詳しいことはわからないのであるが、先々代頃までは毎年先祖祭が盛大に催され、占部に関係ある人たちが先祖詣りとして集まることを年中の最大行事としていたとも聞いています。又日露戦争前までは刀箪笥、鎧・かぶと等多数があったらしいのですが、戦争後の経済波動と時勢の力といいますか、今日では家系譜と数通の古文書が残されているだけであります。

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10数年前に北九州市八幡東区にうらべ書店という本屋があって、ご店主から朝倉の占部氏について話を少し聞いたことがありました。その頃はまだ占部のルーツも何も知らなくて、占部には二流あって千葉氏を祖とする占部氏がいること、朝倉の墓には千葉平氏の流れであることが記述してあることなどを教えてくださいました。又墓所には古賀家の墓も一緒にあったが、ある時突然無くなったとも聞きました。

朝倉の占部氏は古賀家の養子となった千葉弥兵衛(=元は占部秀安という。養子に入って古賀を名乗っていたと思われるが後に占部に復姓した)から始まっていますが、大庄屋格古賀家の墓は比良松村に一頻りあったので、大城の古賀家の墓というのは弥兵衛の妻の両親・あるいは兄弟でしょうか。

更に、ご店主より「占部家のルーツを調べていくうちに兄は悟るところがあって神主になった」とも聞きました。「兄の話によれば格が高くないと唱えることができない祝詞を占部が担当するのだとも聴いている」と話していました。

あとでわかったことですが、実はこの「神主になった兄」というのがすなわち高木神社の宮司林輝雄さんのことでした。うらべ書店の方は勿論占部姓ですが林家から養子に来られたのですね。

本の著者林正夫さんと林輝雄さんとは同じ林ですが、正夫さんは無医村であった高木村の代診として外から来られ、公民館主事などを務められた方で、血のつながりはないそうです。大城の占部家の人々が診療所に来ては昔語りをしていたようです。高木神社の林輝雄宮司さんと大城長者物語の語りべ芳兵衛じいさんとは甥と伯父の関係で、どうも私どもに舞い込んだ大城長者物語はこの林宮司が書いたものではないかと思えてきました。




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