臼井氏のルーツは現千葉県臼井にあるとした。では何故遠く離れた九州に臼井氏の後孫が生きているのか。これを理解するのに源氏との関係を抜くことは出来ない。 関東における源氏と平氏の接点を探した。

源氏のはじまり

【源氏系図】

50.桓武天皇┬万多親王──桓武平氏
           ├葛原親王──桓武平氏
           │   ・
           │   ・
           ├51.平城天皇
           ├52.嵯峨天皇┬54.仁明天皇┬55.文徳天皇────┐
           ├53.淳和天皇│     ・    ├本康親王─仁明平氏 │
                        │     ・    │  ・               │
                        ├嵯峨源氏   │  ・               │
                                     ├仁明源氏           │
                        ┌────────────────┘
                        └┬56.清和天皇─┬ 57.陽成天皇─陽成源氏
                          │     ・      ├貞純親王─清和源氏
                          │     ・      ├清和源氏
                          │     ・      │
                          ├文徳源氏   

前に述べたように、(たいら)は、皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つであり、又朝臣(あそみ、あそん)は皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる姓であった。 一方(みなもと)も又、皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つであったが、天皇の孫以降に与えられたのに対して、天皇の子に与えられたので、実質源姓の方が格が上とされた。

筆者は家系図に興味を持つ前には、歴史にはほとんど無知であった。平氏といえば、平清盛の一族を、源氏といえば源頼朝の一族を思い、漠然と歴史を左右する二大勢力のように考えていた。 源氏はもともと嵯峨天皇が子らに賜った姓であったが、それ以降歴代の天皇も子に源姓を賜ったためそれぞれ天皇の名をつけて区別するようになった。ちなみに 鎌倉幕府を開いた源頼朝は21流あると言われる源氏の中の清和源氏の流れであり、平清盛は千葉氏の祖、平良文の兄国香から始まる伊勢平氏の流れである。

清和源氏と河内源氏

【河内源氏と源頼朝】

56.清和天皇┬57.陽成天皇─陽成源氏
           ├貞純親王─(清和源氏)源経基─満仲┬頼光(摂津源氏)
           ├清和源氏                        ├頼親(大和源氏)
                                             └頼信(河内源氏)┐
   ┌────────────────────────────┘
   └ 頼義─義家─義親─為義─義朝┬義平
                                  ├頼朝┬頼家
                                  ├範頼└実朝
                                  └義経 

平清盛源頼朝が有名なせいで、西国の平氏、東国の源氏のように思いがちだが、本来はその逆である。 平高望が関東に下向して以来、関東はもともと平氏の地盤であった。一方の清和源氏は、畿内を中心として広がった。 清和天皇の子貞純(さだずみ)親王の息子達、経基(つねもと)王経生(つねお)王は共に源姓を賜り臣籍降下したが、二人とも拠点は京であった。 始め経基王は承平8年(938年)武蔵介となって赴任するが、在郷勢力とぶつかり京にもどった。 経基王の子源満仲も、始めは京の武官であった。後に満仲は国司を勤めた摂津国に土着したが、 満仲の息子の代で摂津大和河内源氏に分かれた。中でも河内(現在大阪府の東部)に定着した源頼信は兄頼光との競合を避け、坂東に拠点を移していく。 この河内源氏から、やがて八幡太郎義家の名で有名な源義家源頼朝が出てくるのである。

河内源氏と伊勢平氏・坂東平氏

関東における平氏と源氏の関係はいつ頃から始まったのであろうか。

万寿5年(1028)頃、関東に勢力を拡大した平忠常が乱を起こした時、てこずった朝廷は河内源氏の祖源頼信を追討使に任命して関東に向かわせるが、まだ当地にとどかぬうちに忠常は出家し降伏した。 誰の言うこともきかなかった忠常だが、頼信の前には急に態度を変えている。頼信常陸介として赴任していた時期もあり、忠常はその頃より頼信の従者ではなかったかとの話もある。現にその後の合戦には忠常の子等が頼信やその子に従い度々参戦している。

又、1051年には東北に勢力を持った安倍氏と国司の間で起こった対立を鎮圧する為に頼信の子頼義が奥州に赴任している。以来長期にわたって合戦が続く中、関東武士達も合戦の度に駆り出されている。頼義の子義家の代までには多くの関東武士がその傘下に置かれるようになった。平良文の子孫達もこうして河内源氏の傘下へと組み込まれていったのだろう。一方そうした流れを嫌って関東の地を離れる者達もいた。

伊勢平氏は平良文の兄国香の流れであるが、もとは良文子孫の坂東武士達と同様関東に住んでいた。しかし、関東武士達が次第に河内源氏の勢力下に置かれるにつれて、それを嫌って 伊勢に根拠地を移したのである。伊勢平氏は源氏に対し、あくまで対抗勢力としての位置を保持しようとした。摂関家を後ろ盾に東国に勢力を拡大する源氏に対して、伊勢平氏(平家)は西国の国司を務めながら瀬戸内海や九州を中心に勢力を広げていった。

源頼朝の挙兵と坂東平氏

源為義の代になって、1156年(保元元年)に崇徳上皇後白河天皇が対立し保元の乱が起こると、一族も上皇側と天皇側とに別れて闘った。 上皇方についた為義は死罪となり、為義の子は流罪となったが、天皇方についた源義朝は残ることが出来た。 その後1159年(平治元年)に義朝平治の乱を起したが、平清盛が率いる伊勢平氏に追討され、頼朝は伊豆に流された。 強大な勢力となった伊勢平氏に対し、伊豆に流されてから21年後の1180年(治承4年)、頼朝はついに挙兵する。頼朝挙兵の時、関東国の『介』として、兵を集めることの出来る領主であった上総介広常千葉介常胤(つねたね)三浦介義明らは 頼朝の招請に応えて出陣した。

三浦氏は坂東(関東地方)に土着して武家となった平良文を祖とする八つの氏族=坂東八平氏の一つである。三浦一族は千葉の南、安房国と相模国に勢力を持っていた。

源頼朝と千葉氏

【上総介と千葉氏の一族】

平良文┬忠頼─忠常─常将─常永─┐
      └忠通(道)┌───────┘
                └┬常家(上総權介)─常時(明)─常隆─広常─良常
                  ├常兼────┬常綱(匝瑳八郎)
                  │(従五位下下総權介・千葉大夫)
                  ├常房(鴨根氏)├常廣(逸見八郎)
                  ├頼常(原氏)  ├常安(臼井初代)┬常忠(常則)─常好・
                  │            │              ├常久┌安常
                  │            │              └常有┴胤安・・・
                  │            └常重──常胤───胤正─成胤─胤綱
                  │              ‖       ‖
                  │ (従五位下下総權介)  (従五位下千葉介下総守護職)
                  │        ┌  ←┘常重、伯父の常晴の養子となる
                  ├常晴(時)┴常澄┬常景
                  ├常義(村澤氏)  ├常茂 
                  ├常遠(安西氏)  └広常─良常
                  ├常継(大須賀氏)

上総介広常・千葉介常胤・三浦介義明らは一族を従えて頼朝に従った。それは平忠常時代からの源氏との関係を考えれば自然なことかもしれない。 しかし、それは同時に源氏の支配を嫌って西に別れていった同族と敵対することにもなる。当然、一族は西の伊勢平氏方と河内源氏方とに二分されることとなった。

話は少し戻るが、平忠常源頼信に降伏した後、子孫たちは乱で荒廃した地を立て直し新たに開墾しながら広がった。忠常から3代常永の死後、常家が後を継いで上総權介となったが、子がなかった為に弟の常晴(時)が継いだ。 一方、常家の弟常兼千葉大夫を号した。兄常兼を押しのけた形で嫡流となった常晴は、その兄常兼の子常重を養子とし、下総国相馬郡を譲った。 常晴にしてみれば兄に対する配慮だったのかもしれないが、常晴の実子常澄はこの事を良く思わず、源義朝を介して奪回を図るなど、相馬郡をめぐっての争いは常重の子、常胤まで続く。

この常澄の周辺は何かと騒がしい。自分は宗家を継ぎ多くを相続した身でありながら相馬郡に執着した。その子の代には兄弟相争い伊勢平氏方河内源氏方に一族が二分された。常澄の子広常源氏方につき、義朝に従う。 頼朝の挙兵の時、頼朝三百余騎常胤三百余騎に対し、広常の兵は2万騎であった。 広常は上総ばかりではなく下総にも領地を持ち、婚姻関係によって強大な勢力を誇っていたらしい。しかし、受け継いだ性格なのだろうか、なにかと不遜で横柄な態度が頼朝の気にさわったか、後の1183年に謀反の疑いをかけられて抹殺されている。広常の勢力に頼朝が危機感を持ったのかもしれない。

一方、常澄にとっては面白くない存在だった養子の常重、父常晴が相馬郡を譲ってから常重の子常胤にいたるまで、あの手この手で奪還しようとした。その常重の子常胤は皮肉なことに広常が抹殺されたことで多大な利益を被った。頼朝は広常の所領を家臣に分配したが、頼朝のお気に入りであった千葉常胤とその一族は広常の広大な所領の多くを受領したのである。 そればかりではない、頼朝に従がって、国内の平氏追討常陸佐竹の討伐などに加わりながら、その恩賞として多くの所領を得ていた。 13世紀頃までには現在の千葉県のほとんどの部分をその子孫たちが治め、常胤の一族は強大な勢力となったのである。