結局、中村右京進守道が気が利いているということで選ばれたが、これに四任(しとう)の吉田姓を与え、吉田河内守と名乗らせて占部貞保に同行することとなった。

ここにある深田中務少助氏榮という人は、この時名を判左衛門と改めていたが、氏貞の在世中には家の執権に加わり威勢があった。更に深田氏は宗像氏の分れであったために、人の尊敬も受けていたから、関白殿下下向の折には真っ先に罷り出て、御禮を申し上げるべき筋であった。しかし、その器量にないということで使者の役からはずれた為に、使者となった貞保とは対照的に全ての領地に取り離れて落ちぶれた。

太閤殿下下向:123│4