氏貞嶽山開城 《その1》大島へ

永禄2年(1559年)九月二十五日立花城主立花鑑載他豊後勢が宗像を襲った。この時宗像は手勢少なく宗像氏貞は城を抜け大島に渡った。「宗像記」ではこれを天文23年(1554年)、氏貞10歳の時のこととしている。 これに対し、「宗像記追考」では年号に相違ありとし、実際は永禄2年九月二十五日のことであったとしている。「占部家系図」に従い、「宗像記追考」の年号とし、内容も二つを合わせた。

さて大友義鎮は益々その武威輝き、筑前・後、肥前・後の諸城主は皆大友に下ったが、その中で宗像だけが依然として大友に属さずにいた。宗像を手に入れ、三牧(水巻)を手に入れれば筑前一国は余すところなく大友氏の配下となる。宗像を手に入れるには先ず要害許斐岳を攻めてこれを落とし一気に本領を押さえようということになった。 >次へ

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