尚持の死

永禄三年秋、大友義鎮は立花勢を案内役として奴留湯長門入道融泉、高橋三河守鑑種、戸次伯耆鑑連、臼杵越中守鑑速、吉弘伊予守鑑理、以下軍士数万人(三千余騎とも)を赤間表にさしむけた。宗像氏貞は当時17歳で、武勇に名をはせ、御家人たちも先代にもなく皆武をたしなんだという。

尚安の一族占部日向守矩安、同民部少輔貞盛、同織部丞貞治、河津新四郎隆家、深川右京進貞国、以下三百余騎は許斐岳を守り固めていた。嫡子右馬助尚持は伯父左馬助重安、左近将監良安以下五百余騎と共に吉原里城を守る。 宗像氏貞は一千余人を従えて白山に籠城し、宗徒の軍士二千余騎が蔦岳城を固めた。>次へ

大友勢再び襲来≫尚持の死:1│23456789