尚持はきっと見て
「空死とはしらで、不覚をしつる無念さよ」
と言いながら押さえて頸を掻き落とし、立ち上がって行こうとするが歩くことができない。しかし太刀を杖について許斐城の半ばまではよろよろと行ったが、次第に弱りそこで死んだ。ときに34歳であった。武勇に並ぶ人がなく惜しまない者はなかった。

尚持は八並村に葬られたが、後の人は尚持の為に祠を建て、今宮殿と崇めた。その後天正9年になって上八村今居原に移され祀られている。

注)永禄三年と四年の出来事の時期が文献によって前後する。占部家の系図には尚持の没年が永禄三年となっているので永禄三年の尚持の死を中心に整理した。又両軍の数は正確なところはわからない。
大友勢再び襲来≫尚持の死:12345678│9