占部氏家系傳 臼井常安〜

この系図は、「宗像郡誌」に掲載され、又、「占部文書(宗像市史編纂室)」の中に収められている系図を元にしている。占部吉太郎氏が所蔵していたものである。 占部吉太郎氏は安政6年(1859年)6月20日、旧宗像郡三崎村大字上八で生まれた。上八には今も400年以上続く占部氏が残っておられる。 そこに伝わる系図を加えてわかりやすいように 現代の言葉に手直しした。又、津屋崎占部氏の系図、甘木占部氏の系図を参照したものに関してはそれぞれ津)と甘)の表記で区別する。又著者のコメントは(筆)と表示した。

   
 

参照)常安とそれ以前の詳細については「桓武平氏と千葉氏」の項をご覧ください

常安┐
  │
千葉六郎 系図によれば、桓武天皇10代の末裔である。上総介(カズサノスケ)忠常の子孫であり、千葉太夫(タイフ)常兼の二男で占部氏の大祖である。 初めは千葉六郎と名乗り、頼朝公に従い筑前国嘉麻郡内の五百町を賜った。臼井村に居住し臼井兵衛尉(ヒョウエノジョウ)と号した
┌─┘

参照)臼井常則・常好の系譜については「臼井氏」の項をご覧ください

├常則─常好
臼井次郎左衛門
順徳院の鎌倉御征伐の勅命に応じたが果たせず、河内国に幽居し、遂に承久三年(1221年)六月十四日京都にて戦死。
津)承久三年六月十四日属官軍戦死
├常久
臼井四郎左衛門尉
常則と共に戦死

参照)時代背景は「筑前宗像争乱 その1 鎌倉時代と南北朝時代」をご覧ください(安延まで)別ウィンドウで開く

└兼安┐
   │    
占部六郎 初名は常有。建暦三年(1213年)二月兄常則、常久は勅命を重んじて鎌倉に叛き京都で戦死した。因って家領はことごとく没収され、兼安はひそかに宗像大宮司氏国の家を頼った。氏国はこれを愛育して占部氏の家督を継がせた。この占部氏は宗像大神祠の祭祀をつかさどり、大宮司の家において最長である。 氏国が彼に家を継がせたのも故あってのことか。(筆:建暦三年とあるが承久三年の誤りではないか。原本通り掲載)
   │  津)占部弥六郎 二兄為官軍戦死 北条義時怒没収兼安町領 兼安避禍于筑前宗像大宮司家 当時宗像大宮司摩下有四名名族 占部居其一無嗣子 大宮司氏国乃使兼安継占部家
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├安常 占部太郎
└胤安┐ 弥六郎
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└時安┐ 四郎 越前守
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└維安┐ 越前守 宗像四任のうちでも文武に秀でた英傑で誰もが一目置く人物であった。鞍手郡若宮荘にて八百町を領有した。(筆:元本補筆部分)
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├維常┐ 大膳進 越前守 又改名頼安 津)頼安と維常は親子
│  │
├師安│ 筑後守
│  │
├維忠│ 津)師安の子
│  │
└守常│ 津)師安の子
┌──┘
├常時 越前守 初名は弥太郎 津)師安の子 (筆:越前守は本家嫡流が名乗っていることと、弥太郎は次子から下の名とは考えられないことから師安の子とは考えにくい)
├重安┐ 次郎 壱岐守 越前守 初、和田茂時という。嘉元三年(1305年)九品下 後に筑前国鞍手郡笠木城主となる(玄海町深田、占部氏家系図より補筆) 津)常時の子
│  │
└兼安│  
┌──┘
└宗安┐ 右馬助、越前守、居城 鞍手郡笠木山
建武三年(1336年)三月足利将軍尊氏卿が菊池掃部助武俊と多々良濱で戦った時、城左馬助武治を討つ。これにより、翌年十二月十七日将軍より筑前吉川庄三百町を加恩される。先祖よりの若宮荘八百町と共に千百町を領有した。貞和六年(1350年)二月肥前の晴氣で戦死。
┌──┘
├安治┐ 右馬助、越前守、童名弥三郎、剃髪淨閑、後に親安と改める。建武三年(1336年)赤星右馬助を多々良濱に討つ。貞和六年(1350年)二月十五日父と共に晴氣で戦い功あり。延文四年(1359年)七月菊池肥後守武光が襲来、多々良濱にて戦う。舎弟千葉三郎戦死。同年八月八日菊池と大いに戦う。嫡子太郎實安、次郎、三郎並びに一族諸士の多くが命を落とした。親安はしばらく豊後に出奔。貞和元年(1345年)(筆:貞治元年(1362年)の誤りか)九月二十七日菊池の先駈秋月三郎、原田大蔵太輔と筑前の長者原で戦い、大いに功あり。同六年三月二十八日菊池の軍士名和里見の堅陣を築後国鳥飼で敗る。応安六年(1373年)四月菊池右京太夫武政追討のために今川伊豫守貞世入道了俊、大内左京太夫義弘、筑前小田原で戦う。宗像氏重、少弐冬資、今川・大内を救う。親安菊池の家臣合志左近将監(さこんのしょうげん)を討って忠功ますます秀づ。

玄海町深田、占部氏家系図)建武三年多々良浜合戦の時高師直に付属し戦功を立て、尊氏将軍より吉川庄三百町を下賜されたこと。又、家紋は檜扇子桐 庶流閉開扇子、又楢折枝を用いるとの記述あり
津)吉川庄三百町を下賜されたのは、延元二年(1337年)十二月十七日とある。又、家紋について「家之紋檜扇桐庶流之家開扇又楢折枝用庶流不用之」との記述あり
 参照)家紋に関する記述飯盛合戦/宗像記(別ウィンドウ)
│  │
└宗次│ 千葉三郎 延文四年(1359年)七月多々良濱で戦死。)宗治
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├實安 太郎 延文四年(1359年)八月八日菊池と戦って戦死
├次郎 實安と同時に戦死
├三郎 實安と同時に戦死
└忠安┐ 弥太郎 右馬之助 筑前守 応安六年(1373年)四月父と共に小田原で戦い軍功あり
┌──┘
├弘安┐ 右馬助
応永二年(1395年)十二月大内左京太夫義弘入道道実に従い泉州堺に至り畠山尾張守満家と戦って死す。二十歳 戒名は芳廣院殿松林浄桂
│  │
├忠宗│ 沼口次郎 兄弘安と共に死す
│  │
└貞安│ 又の名を信安 弘中三郎 大膳進 甲斐守 越前守
兄弘安・忠宗が戦死したために家領を相続した
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└安延┐ 弥太郎、右馬助、越前守、初名識安
嘉吉元年(1441年)十二月大内介ヘに従い、太宰小弐嘉頼の有智山の城を攻めて大いに功あり。寛正元年(1490年)閏九月剃髪して宗快という。文明二年(1470年)三月宗像郡上八村に承福禅寺を建て亡き子盛延、弘尚などの追福をする。同十年六月十八日没。81歳。戒名は承福寺殿慶岩宗快居士
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├盛延──┐ 弥六郎 大内介持盛の一字を受ける 永亨八年(1436年)八月三日防州山口にて害にあう 22歳
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│  └弘安 弥六郎 大内介教弘の一字を受ける 寛正二年(1461年)伯父清安に家禄を譲られる 文正二年(1467年)八月大内左京太夫政弘に従って摂州に赴き戦死  35歳
├弘尚 右馬助 越前守 嘉吉元年(1441年)七月二十八日京都の乱に大内修理太夫持世と共に戦死する。25歳
├清安 岩松三郎、左近将監、越後守。寛正元年(1460年)閏九月父の家禄を受ける。清安は固辞したが安延はこれを聞かずに家督とした。同二年家禄を叔姪(シュクテツ)にゆずり、鞍手郡下村に住まう
├月潭和尚 文明二年(1470年)三月承福寺の開山となる。明應二年(1493年)七月十五日没 60歳

参照)時代背景は「筑前宗像争乱 その2 大内氏とともに」をご覧ください別ウィンドウで開く

└祐安┐ 右馬助 伊豆守 越前守 剃髪して宗月という
永享十二年(1440年)誕生。母は宗像大宮司氏澄の娘。文正二年(1467年)八月弘安が戦死した時大いに軍功をたて、父の入道は家督相続を命じた。 文明元年(1469年)五月十七日仁保加賀守弘直が宗像郡西郷に出陣し、大内新蔵人教祐が戦死。この時、矢傷を受けたが最後には弘直の軍を破って功をたて、続いて小弐教頼の有智山の城を攻めて武名を高める。明応七年(1498年)八月嫡子豊安と共に大内左京太夫義興に従い豊州佐田城を取って大いに功あり。文亀四年(1504年)二月剃髪して宗月という。永正十四年(1517年) 五月二十七日没。78歳 法名は廣壽院殿凉山宗月
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├豊安──┐
右馬助 壱岐守 越前守 法名了渕 文明三年(1471年)生まれ 母は内藤掃部助弘重の娘
明応七年(1498年)八月、豊後佐田城に武名をあらわす。同八年宗像興氏を助けて、宗像氏佐の片脇城を囲む。氏佐は豊後に出奔した。

永正三年(1506年)正月小弐筑後太郎教頼の子筑前次郎政資が大宰府で蜂起する。筑紫上野介資方・麻生与次郎元貞等がこれに加わった。義興は自ら陶五郎、杉七郎、弘中下野守、内藤掃部助、青景弾正忠以下二万余騎を率いてこれを攻め、政資は戦死した。豊安の大内家に対する軍忠は甚だしかった。同五年正月義興に従い洛陽で軍功をたてる。同八年八月義興は細川右馬頭政資を船岡山に討伐するが、豊安軍の軍忠は他を超え、舎弟占部孫三郎盛祐、家臣弘中五郎は命を落とした。

大永五年(1525年)十月十一日安部伊豆守範任とともに宗像郡深田村に兵を進め、宗像民部少輔氏続の館を囲む。氏続は行方をくらます。この時範任が氏続に通じていたとの風聞が立ったため豊安並びに許斐四郎氏任などが協議の上範任を飯盛山にて討ち果たした。

この時乱世で城とする所を探したが許斐山に及ぶ要塞がなかった。しかし、許斐山は大内家の領地になっていた為、義驍ノ願い出てこの場所を賜った。この時吉川荘三百町を代地として捧げることを申し出たので義驍ヘ即座に許斐山要塞の地を豊安に賜った。豊安は大いに悦び享禄二年(1529年)十月より土民を督励して堅牢無比な城を構え、吉原に里城を築いて要塞を一層堅固にし、これに居城した。大内義驍フ恩顧によるものである。

天文元年(1532年)九月十五日宗像新四郎氏延が許斐岳を襲う。豊安は応じて追い退け続いて立花左近将監鑑光の立花城を攻めて功をたてる。同十一年閏三月嫡子尚安を大内義驍ノ従わせ雲州富田城を攻めさせた。同十四年十一月二十一日没。75歳 天輪院殿知窓了淵居士という。上八村承福寺の門下に葬る。
)天文十四年五月二十七日卒 天輪院殿知窓了閑居士(閑は部首さんずい付)妻:天文二十四年二月四日卒 芳泉院殿珠徳貞恰大姉 
│    │
├女   │ 大和左衛門尉信尚妻
│    │
├女   │ 麻生攝津守家経妻
│    │
├盛祐  │ 孫三郎 永正八年((1511年)八月舩岡山で戦死
│    │
├豊廣  │ 山口五郎 弥九郎 田嶋に三十六町九反領す系図あり深田占部氏
│    │
├明隠和尚│ 承福寺住僧 (筆:宗像郡誌には明穏和尚とある)
│    │
└女   │ 占部大膳進尚賢妻 占部越後守賢安の母
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参照)時代背景は「筑前宗像争乱 その3 許斐城戦記」をご覧ください別ウィンドウで開く

├尚安┐ 弥六郎 右馬助 甲斐守 越前守 文亀三年(1503年)九月十一日鞍手郡古賀城に生まれる。母は神代紀伊守貞総の娘(戒名芳泉院殿珠徳貞恰大姉) 永正十七年(1520年)六月五日元服して豊治という  
天文元年(1532年)九月十五日宗像氏延勢を追討する。 同二年三月八日右馬助尚安と改名。宗像隆尚の一字を受ける。同九年三月二十二日、嫡子尚持と共に立花城を攻めて功名を表す。同十一年閏三月大内太宰大弐義隆に従って雲州に向かい尼子の富田城を攻めて大いに功あり。 同十五年正月十三日家領六十七町を賜る。天文二十四年二月二十八日占部大膳進賢安より、尚安の領内である田代に名子(下層農民)三名を置き、その内一人を尚安に永代遣わすとの申し入れが書面にて届く。尚安はこれを許可した。同年九月古賀城から 許斐岳に移る。甲斐守となる。同年十月嫡子尚持と共に芸州に行き、志を毛利右馬頭元就に通し、戦功大いにあり。

弘治二年(1556年)正月十九日氏貞は石松兵部典宗を使わして 尚安に采地を賜う。同二十日許斐三河守氏任、寺内備後守尚秀、国分若狭守直頼、仲村筑後守尚道、寺内治部允秀郷を招いて昨日の恩顧地三十余町を示す。同年六月七日河津民部少輔は若宮に出張したが、占部越中守幸安といさかいあり。尚安はこれを仲裁した。 同年十一月十一日宗像勢は若宮表に軍を出し、杉豊後守連緒と八尋室木で戦った。尚安は杉の腹心河内山六郎を討つ。同三年七月十三日越前守となるが、九月十日元の甲斐守となる。 同四年正月二十二日立花勢を古賀原に討つ。

永禄二年九月二十五日立花但馬守鑑載、奴留湯長門守鎭氏、他大友幕下の軍士がにわかに来襲。味方は勇猛をふるうが、時に望んで無勢のため勝を得ず。城を捨てて 大嶋に出奔する。同三年正月勝嶋に要害を普請し、神湊に城を構えて住まう。これをく草崎城という。同年四月許斐岳に帰城する。同年八月奴留湯長門入道融泉、高橋三河守鑑種、戸次伯耆鑑連、臼杵越中守鑑速、吉弘伊予守鑑理、以下 軍士数万人が来襲。尚安の一族占部日向守矩安、同民部少輔貞盛、同織部丞貞治、河津新四郎隆家、深川右京進貞国、以下八百余人、許斐岳を守り固める。嫡子右馬助尚持は伯父左馬助重安、 左近将監良安以下三百余人、吉原里城を守る。氏貞朝臣は一千余人を従えて白山に籠城し、蔦岳城には宗徒の軍士二千五百余騎が在城する。十六、七両日諸所で戦う。尚安と尚持とその子宮若丸は相共に軍忠他に異なり、よって毛利元就、 隆元、宗像氏貞は書を以って称える。同四年四月十日氏貞は書を送り、尚持に地頭所鞍手郡沼口村の内一方を配当しようとするが、尚安はこれを受けず。同十三日には再度沼口の事を辞退する。占部賢安、吉田重致が足を運んで説得し、ようやく許諾した。 同十八・九両日にわたり、豊後製と許斐岳の城下において大いに戦い、敵を多く追討した。豊後の兵は遂に敗北。大江元就は書を送り、尚安の勇猛を称えた。同年八月亡き子尚持追悼のために平井村に寺を建てる。建興院という。田島村医王院三世の玉岩和尚を開山とする。 同年十月氏貞自ら筆を取り、政事及び宗像大神の社殿建立の事を談ずる。同七年毛利と大友の和睦調停のため、七月二十八日元就は意向、趣を書を以って述べる。同九年正月十三日家領を孫の貞保に譲ったが実際の運営に当たっては尚安が指揮をとる。同年九月神湊に隣船庵を建てる。 開山は可真座元。同年九月十日立花鑑載、奴留湯融泉と飯盛山下で戦って功あり。同十二年大江元就、吉川駿河盛元春、小早川左衛門佐隆景、宍戸安芸守隆家以下数万の兵をして立花城を攻めさせた。 尚安、貞保は計略を持って許斐岳城を転じて吉原の里城に至る。

元亀三年(1572年)二月三日没す。70歳 承福寺の門前乙尾山に葬る。玲岳院殿琴渓宗音居士という。これは先の天文二十四年(1555年)三月南禅寺賢碩鼎和尚(聖福寺の湖心和尚のこと)が尚安夫婦に贈った法号である。 (注)承福寺のご住職によれば、湖心和尚は京都南禅寺で視篆回堂(最高位の就任の儀式)を行ったほどの名僧であり、大内義隆の仕立てた遣明使の正使として足利将軍義晴の国書を携えて明国に渡った外交僧である。宗像の河津家も落慶法要など湖心和尚との縁があり、弟子玄蘇は後、宗像80代氏貞に招かれて承福寺に入り、氏貞の父隆尚の25回忌予修法要をおこなっている。(承福寺HPより)
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├女 │ 米多比出雲守正兼妻 修理進貞兼の母
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├女 │ 占部藤兵衛尉旨安妻 藤兵衛重次の母
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├重安│ 弥七郎、左馬助、壱岐守、東郷に住う 左馬助貞成の父
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├良安│ 弥八郎、左近将監、田島村に住う 弥九郎貞頼の父
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├女 │ 吉田市助貞文の妻
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├女 │ 許斐安芸守氏鏡妻
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├安忠│ 乙野五郎、鞍手郡乙野に住まう。
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└女 │ 家臣 岩松大炊豊茂妻
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├尚持┐ 春王丸 弥六郎 右馬助 母宗像中務少輔氏繁の娘 天正九年(1581年)十月八日没 戒名 桂嶺院殿久林妙永大姉
大永七年(1527年)正月一日吉原里城に生まれる。春王丸と名づける。

天文九年(1540年)三月二十二日父と共に立花城を攻めて功あり。時に年14歳。同十一年(1542年)閏三月一日元服 弥六郎尚持と名乗る。宗像隆尚が加冠。同二十四年四月七日右馬助と改める。同七月七日多賀美作守隆忠が許斐岳城を夜更けに攻め落とす。同年十月父と共に芸州に至り、志を大江元就に通し、厳島の西鼓ヶ浦で戦功をたてる。

弘治二年(1556年)十一月十一日父と共に杉豊後守連緒の兵を若宮庄室木で討つ。同三年七月八日多賀隆忠を畝町川原で討ち首を取る。同年九月毛利勢に属して豊前に出向き戦功甚だしい。同四年正月十二日立花勢を古賀原に討つ。 同年三月十一日杉連緒の軍兵を赤間にて討つ。同年十一月九日連緒の兵若宮庄生見村で討つ。

永禄二年(1559年)九月五日手野卿糟薗名を領する。同月二十五日立花鑑載、奴留湯鎮氏及び大友幕下の兵卒数千騎が俄かに来襲する。 白山、許斐両城を囲む。遂には城を抜けて大嶋に向かう。同年十一月奇計を用いて神屋主馬允を密かに鎮氏に仕えさせる。同三年三月二十八日許斐岳を攻め取る。鎮氏は行方をくらます。元就、氏貞は深く感じて書を送る。 同年六月二十四日鞍手郡沼口村を領する。同年七月中国に至り毛利元就に謁する。同年八月豊後勢数万人が来襲して対陣度々防戦に及ぶ。 同月十六・七日両日豊後の兵敗北。尚持は敵を打つこと数知れず。帰路についたが途中で伏兵に左足を斬られる。 尚持怒ってすぐさまこれを討つ。(黒糸の鎧、枇杷葉の着物)終に十七日の黄昏、深手の為に命を落とした。時に34歳。建興院殿桂岩宗光居士という。八並村に葬る。又吉原の山中というところに神に祭り、今宮殿と崇敬する。 天正九年(1581年)八月上八村今居原に祀る。
│  │
├女 │ 河津掃部允隆家妻 津)西郷亀山砦ノ住 隆家ハ河津隆業之嫡子 高鳥居城主
│  │
├貞康│ 平次郎 下総守 幼名は定安 後に氏貞の一字を受ける 天文二年(1533年)二月生まれ。同十五年閏七月元服 赤間庄に住まう 天正八年(1580年)三月十七日九町七反を領する 幼き頃より占部日向守矩安養子となる。
│  │
├貞安│ 五十治丸 新五郎 源内右(左)衛門 天文五年正月生まれる 同二十二年四月十七日元服 幼名守安 八並に住まう
│  │
├重矩│ 稲若丸 弥五郎 天文10年(1541年)六月生まれ 弘治四年(1558年)正月七日元服
│  │
├貞居│ 千千代丸 五郎 天文十四年十二月生まれ 永禄五年(1562年)十月元服
│  │
└女 │ 吉田兵部少輔貞勝妻 天文二十一年(1552年)五月生まれ
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参照)時代背景は「筑前宗像争乱 その4 宗像氏貞時代」及び「筑前宗像争乱 その5 宗像家の終り」をご覧ください(別ウィンドウで開く)

├貞保┐ 宮若丸 八郎 筑後守 九郎右衛門 法名宗仙 母は山鹿城主麻生形部少輔家助の娘 寛永五年(1628年)丙辰十一月二十五日没 97歳 戒名 長廣院殿心景妙悦大姉
天文十六年(1547年)正月五日許斐城に生まれる。永禄三年(1560年)八月十六日初陣。豊後兵奴留湯主水の堅陣を赤間庄長尾原で破り勇名を顕す。時に14歳。同月二十日氏貞感状を賜う。 同八年十二月十三日元服。八郎貞保と号す。氏貞が加冠。同九年正月十三日家領相続の証文を賜う。同年宝満山の城主高橋三河守鑑種は密かに志を毛利家に通す。貞保は趣旨を芸州に訴えた。この時元就は雲州におり、 尼子と対陣の為、留守の宰臣6人が閏八月十五日に連署して貞保に使札を遣わす。即ち立雪斎恵心、乃美兵部丞宗勝、市川式部少輔経好、赤川左京亮元保、坂新五左衛門元祐、志道(しじ)大蔵少輔元保である。 同十年七月七日麻生鎮里豊州に媚びて同姓攝津守隆実と戦う。貞保は隆実を助て翌八日上津役の要害を切り崩して敵を大いに討つ。氏貞はこれを書面を以ってほめ、石松摂津守典宗を使わして褒美を授けた。 同年九月十日立花城下に軍を出し、立花奴留湯の兵を討つ。同年冬承福寺と山境を争う。永禄十一年五月占部越後守賢安、吉田伯耆(ほうき)守重致の計らいで承福寺瑞林和尚と和睦する。瑞林和尚は山鹿城主麻生形部少輔家助の末子で、貞保の叔父である。 同十二年(1569年)毛利勢立花城を囲む。三月十八日元就は趣旨を書に書いて、貞保に示す。同年五月十八日豊後兵堤九郎次郎を長尾原で討つ。同年十月十六日豊後兵を吉原里城構口にて撃つ。天正六年(1578年)六月一日宗像皇大神遷宮の座において 大和左衛門尉秀尚を面縛(両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらすこと)した。氏貞は憤怒して貞保を咎めたが貞保は心服せず。許斐岳を退き上八の邸宅に籠居し召されても出ない。同姓の占部賢安は社役の長としてしきりに大和の不忠を挙げる。同年十月終わりに 大和氏は断絶された。しかし貞保はしばらく政事の舞台に出ない。同九年八月父を祀った今宮社を住居の傍らに移す。天正十四年(1586年)二月十四日筑後守と名付けられる。貞保は越前守となることを願うが叶わない。同年三月氏貞の死を悼み元の八郎に戻る。天正十五年三月三日 九郎右衛門と改める。同年豊臣秀吉公に長州下関において謁っする。秀吉公西国下向によって氏貞の後室より使者として吉田河内守守道も同様である。同年五月豊臣公が薩州から帰陣の時筑後堺より箱崎までお供する。家臣弘中勘助、吉田源兵衛、大和吉右衛門等もお供する。 同七月箱崎で殿下秀吉公に拝謁。衣服一重を賜う。同月筑前一円、筑後の内四郡、小早川隆景公に賜う。その内夜須郡内二百町、筑後内二百町は宗像領とする旨公命があった。隆景公にその旨任せられる。 この時貞保は祖父尚安以来中国や西国の処々に毛利家との交流があった。これによって隆景公はしきりに貞保父祖の忠功を公に話される。秀吉公は即座に肥前国瓜生野を賜う。すでに 太閤秀吉公は岳山に入城された。その城を破却するようにとの命あり。隆景はすぐさま乃美兵部允を遣わして直ちに貞保に指示する。文禄二年(1593年)八月家臣岩松興吉、石松清左衛門、常世神右衛門を瓜生野へ遣わし、 開墾地のことを沙汰させる。既に岐路箱崎放生会(ほうじょうや)になり、名嶋の警固藤井三郎右衛門を討って、三人供に自殺した。この事で諍いがあり、乃美備前守、草刈対馬守が入魂して調べる。慶長二年(1597年)瓜生野を返上する。 同十四年二月南禅寺酊庵和尚(異国為道天在対府)法号を賜う。桃園宗仙居士と号す。寛永九年(1632年)十二月四日没す。85歳。寿雲院殿と号し乙尾山の麓今居原南圃中に葬る。
│  │
├女 │ 深川右京進貞国妻(津)若宮二住ス) 貞国が戦死した後許斐左馬太夫氏備に嫁いだ(津)村山田村ノ住) 貞国に嫁いで二男二女あり
│  │
├女 │ 石松兵部丞貞増妻
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├女 │ 埴生左衛門尉貞盛妻
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├貞重│ 宮千丸 十郎 弘治三年(1557年)二月六日生まれる 天正二年(1574年)十一月一日元服
│  │
└女 │  
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参照)時代背景は「筑前宗像争乱 その6 黒田藩のもとで」をご覧ください別ウィンドウで開く

├守次─貞次 籾田(太)丸 久内仁左(右)衛門 母は吉田和泉守秀時の娘 珠光院殿月浦妙圓信女 寛永十三年(1636年)九月十八日没 91歳
天正七年(1579年)八月朔日生まれ 慶長三年(1598年)八月一日元服 久内守次という 豊福長賀の婿養子となって江口に住む。後上八村今居原に移り本姓に戻る。 寛永八年(1631年)正月二十六日没 52歳 戒名は春甫宗心禅定門 守次には二女一男あった 嫡女は遠賀郡鬼津村四郎右衛門に嫁いだ 二女は大森六右衛門。息子は新左衛門貞次を名乗り上八村の庄屋であった 承応三年(1654年)十月二十二日没 46歳 戒名小梅元春禅定門
├女 石松源四郎貞宗妻
末保@(下方に別記)
   
仁多寿丸 與太夫 次郎左衛門 四郎右衛門
天正十三年(1585年)五月二十九日生まれる 慶長八年(1603年)十二月十三日元服して與太夫貞持と名付ける 元和元年(1615年)九月、次郎左衛門と改名する。 同十年正月十三日四郎右衛門と改名。寛永五年(1628年)八月十六日黒田高政公に仕える。同八年東蓮寺山部に屋敷を構える。同十三年冬肥前島原の一揆征伐の為、高政公は江戸を 出発。末保はお供に加わることを請うが許されず。吉田壱岐重成に公命が下される。同年十二月二十七日公命に背き江戸を出て島原に至り、福岡原田専衛門、島津利兵衛と同じく先駆けを争い 本丸に入り一揆の首を得て福岡東蓮寺諸兵の中でもこれに先んずる者なく既に帰陣の後に各忠賞あり。しかし末保は功をたてたとはいっても公命に従わなかった罪は重いとして加恩されなかった。 末保は憤り同年六月禄を辞退して宗像郡上八村に籠居する。正保二年(1645年)四月福岡に至り、長濱四郎右衛門屋敷に至り、博多聖福寺に籠もる。寛文六年(1666年)正月十七日没。82歳聖福寺の境内 円覚寺に葬る。豊州廣壽山即非和尚法号を端翁道嚴信士という。末保二女二男あり。
├女 小川弥八妻
├貞俊┐ 浜寿丸 市左衛門 九郎右衛門(別系図に末長とも)
天正十九年(1591年)九月九日に生まれる。慶長十四年(1609年)十一月十五日元服、市左衛門貞俊という。寛永十一年(1634年)二月二日九郎右衛門と改名する。 万治四年(1661年)三月四日剃髪して宗柏という。延宝四年(1676年)八月二十七日没す。86歳。今居原屋敷の内に葬る。これより先延宝三年六月横岳山崇福寺江雲和尚が法号を書して、華林宗白(柏)信士という。妻 承応三年三月二十一日没春林妙順禅定尼
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└貞廣│ 万寿丸 喜作 九兵衛(別系図に貞元とも)
文禄三年(1594年)十二月五日生まれる。慶長十五年(1610年)九月九日元服。(津)江口村二住ス) 寛永年中江戸で病死。貞廣には二男二女あり。貞廣の死後、妻は再び占部作右衛門に嫁ぎ東郷に住まう。四人の子も共に作右衛門の子となる。 後に娘は原村太兵衛に嫁いだ。太兵衛の死後忠右衛門に嫁ぐ。
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俊安A(下方に別記) 虎吉 徳兵衛 忠右衛門 (別系図に末茂とも) 母は吉田平左衛門貞勝娘
十二月二十七日上八村に生まれる。寛永十年(1633年)井上氏周防入道伯に追従して遠賀郡黒崎に住む。貞享五年(1688年)三月崇福寺質休和尚は吉峯宗嘉居士と法名した。元禄三年(1690年)庚午六月二十三日上八村今居原で没した。77歳。屋敷内に葬る。
├末次┐ 兵太夫 市郎右衛門 元和四年(1618年)正月三日生まれる。
宗像家断絶後父祖は微禄に甘んじて黒田家に奉仕したが、何かとかみ合わず面白くない。悲憤痛恨のことあって断然意を決し、機会あって子孫が再興する迄ここしばらくはじっと機を待つ他はないと心を定め 先祖伝来の槍剣を棄ててすき・くわを握り帰農して稲元村に移住、荒野を開墾、池沼を拓き大いに農事を奨励した。これが帰農の始まりである。元禄八年(1695年)乙亥十二月病死 上八村今居原に葬る 平林義常と名乗る
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├女 │ 遠賀郡今古賀村柴田氏惣右衛門妻
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└女 │ 寛文十一年(1671年)辛亥十一月十三日早世 今居原邸内に葬る。戒名雪庭妙圓
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├市右衛門
│又は末廣
善助 母は大森六郎右衛門娘 妻子無し 元禄四年(1691年)五月九日稲元村にて病死。上八村乙尾山に葬る。絶学宗真と法名する。
├女 徳重村五十君伊兵衛妻
├與三郎─┐ 享保三年(1718年)三尊佛の内、普賢菩薩を寄付する。享保15年(1730年)庚戌十一月十七日没。今居原の邸内に葬る。法名は、横岳山天庵和尚より賜わる。珠光院自了道然居士 妻は山田村吉田氏より来る
├源之允 │ 俊安の名跡を継ぐ
明暦二年(1656年)丙申生れ。伯父忠右衛門俊安の養子となる。実母は大森六郎右衛門娘で養母は占部作右衛門の娘。元禄十二年(1699年)九月、崇福寺天庵和尚法号を書し、華渓宗岳の号を賜る。享保二年(1717年)正月安延山承福寺本尊釈迦佛を寄進する。享保八年卯三月四日氏貞公御塔建立 同年同月越前守安延墓同作 享保十七壬子年(1732年)十月七日没 純巖和尚、見性院華渓宗岳居士とする
└新之允 │ 元禄十四年(1701年)十月二十九日稲元村にて死亡。年四十一才 上八村今居原に葬る。斗山無北という
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├儀右衛門 宝暦十三年癸未年(1763年)正月三日没 今居原の邸内安の辻に葬る。享年八十六歳。承福寺無涯和尚 朽谷幽翠居士と法名する。享保十四年(1729年)十二月三日火災にかかり宝物什器など殆ど灰塵に帰した
└與次郎 裏の屋敷に分家する。宝暦八年(1758年)四月二十二日 享年七十五歳 雲叟休閑居士と法号する
甘)
@末保
(筆)末保には二女二男があったという。末保直系子孫の系譜には次郎助と貞信を挙げる。次郎助は薩摩にて早世、貞信は四郎右衛門としている。 又同系図に別人による記述があり、次郎助が二人居たとする。そのうち一人は早世。3歳で亡くなったためその後の子に同姓を与えたか?又後妻の子を利安とし嫡子としている。津屋崎の系譜には、伊安と良安を挙げ、伊安が後に利安となったこと、良安は治郎之進であるという。
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└利安┐ 甘)母は播州姫路中村四郎兵衛宗矩の娘 寛永二十年(1643年)六月十四日生まれる。大三郎。弾平衛 四郎右衛門 黒田光之公・綱政公に仕える。元禄十二年(1699年)十月二十八日没する。博多圓覚寺聖福寺丹巖和尚結縁  常心道幽居士という
津)伊安、後に利安と改める。與七郎後四郎左衛門 母は中村氏
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└秀安┐ (筆)実父は占部忠右衛門俊安
甘)筑前平松村転住、俗名千葉弥平衛 古賀家中興系譜に曰く「宗像大宮司家臣故有て占部の姓を千葉と改め当家に来る。後に血統なるを以って7代重栄養子とす。嫡子佐田村へ転住する。元文元丙辰年(1736年)九月初十日卒する 芳顔了菊信士
 
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└九郎次 占部姓に戻る 大城長者始祖 大城長者昔語りへ (別ウィンドウで開く)
津)
A俊安
 
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├源之允─┐ 貞秀  実父は俊安弟、市郎右衛門末次 
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└秀安  │ 占部利安の養子となる
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├茂平次 始、與八郎 享保十八年七月五日 説叟宗樹居士
├與次平  
└秀保┐ 占部四郎次
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├昌安 占部四郎次
├幸安 占部新六
└秀勝┐ 占部太郎次
宝暦三癸酉年(1753年)八月宗像郡上八村より渡村の入庄屋役を勤め数年の後移居して農業を営み天明元年(1781年)十月九日病にて没する。浄土宗教安寺に改宗し天承院教譽崇本居士という 行年六十三歳 室深田氏文化四丁卯年十月八日没する 崇福院歓譽妙翁大姉 行年八十二歳
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