延楽寺/宗像市東郷

「真宗西本願寺に属す。天正2年水心という僧はじめて建立す。寛永17年正月寺号木仏を許さるという。(筑前続風土記拾遺巻より)」水心は占部重安の法名である。許斐岳城主占部尚安の弟で、弥七郎、左馬助、後に壱岐の守重安を名乗った。兄と共に幾多の戦場に馬を出し、又許斐の城で敵を防いだ。延楽寺の境内に占部大膳進の碑がある。その傍らの像を重安の像としたが、誤りであることが分かったため改めて書き直す。(H.24.9)

浄土真宗本願寺派江龍山延楽寺

 

境内の正面向かって左の裏手に回る

 

占部重安の像..と思ったが(失笑)

占部重安の像...ならぬお地蔵様の話

思い込みとは恐ろしいものである。この像をてっきり寺の開基の像すなわち水心=重安のものと思い込んだ。実はこれはお地蔵様であった。先代ご住職の祖父にあたる17世和尚が山口に布教に行った帰り道、石垣を修理しているところに差し掛かったが、工事人が石が足りないと言って地蔵を入れようとしていた。あわてて止めて金を渡して石を買うようにしたが、このまま地蔵を置いて行っては粗末に扱われるかもしれないと心配になり引き取ってきたのだそうだ。全て「たまたま...」の話であるが、案外そうでもないかもしれない。山口といえば、中世大内氏時代、毛利氏時代など度々遠征に行き来し、馴染みの深い地である。そこで亡くなった縁者を誰とは知らずに祀ったものかもしれない。お地蔵様になって里帰りしたのだろうか。

     

占部大膳進の碑 

 
<占部大膳進の碑>
先代安井住職のお話によると、近くにある西教寺納骨堂の前あたりに占部の古い墓地があったという。数年前までは民家の納屋になっていたが、近くのJRの線路に高架橋を建設する為立ち退いたので、今は更地になっている。昔、墓には椋(ムク)の大木があって、墓は石が転げて何がどれだかわからなくなっていたという。その中で大膳進という字だけが読み取れる墓があった。墓をまとめて占部の墓と書くはずであったがどうゆうわけか建った時には頼んだ人が間違えて占部大膳進の碑となっていたらしい。寺には昔の文献もあったが本堂が焼けたときに失われたという。

延楽寺の初代、重安が姓を捨てて以来、後にもう一度姓を名乗る時になった時、占部姓をあえてつけずに安井と名乗ったのだそうだ。本家が占部を名乗らず安井氏としたので、東郷あたりの分家は皆安永を名乗ったのだという。

福津市の許斐山の西南に畦町があるが、そこから赤間に抜けるのが唐津街道だ。街道から奥まった所にあるにもかかわらず、来訪者が多かったそうだ。田島の宗像大社に抜ける道があったのではないかとのことであった。(200年11月)

占部大膳進の碑 

 

占部大膳進

占部系図の中で大膳進がつくのは、初代占部兼安から数えて5代目維常、それに1300年代半ばの貞安。更に「宗像記追考」には、明応7年(1498年)に大宮司氏佐と興氏の争いに戦死した頼安の名が残っている。ほかに別系として占部尚賢とその孫種安という名が残っている。前者が武家系列なのに対して、後者は社家系列である。許斐城を再建した占部豊安の妹が大膳進尚賢に嫁いで縁戚関係にあった。天正年間の知行帳には東郷衆の項に占部大膳進の名が載っているが、これは占部種安のことである。

┌占部豊安┬尚安──┬尚持─貞保
├(間省略)├(間省略)├(間省略)
┼        ├重安   ├女子 河津新四郎驩ニ妻 
├                └女子(吉田兵部少輔貞勝妻)
└女子(占部大膳進尚賢妻)
    │
 大膳進尚賢越後守賢安大膳進種安

                      ┌占部尚持妻(後妻となる)─貞保
吉田重致(伯耆守・法名宗金)─┬女子(占部賢安妻)
                            ├貞棟
                            ├(間省略)
                           ├
                            └貞昌─貞勝

上記、宗像家の吉田姓は、四任(シトウ)と呼ばれた古来からの重鎮四氏のうちの一姓である。占部豊安・尚安と同時代に生きた吉田伯耆守重致は財力もあり、当時すこぶる威勢があった。その婿となった占部賢安の系図は前後1・2代の名が残っているにすぎないが、「社役の長」であったといい、現存する古文書の中に数多く名を残す人物である。賢安の祖父伊豆守相安が「無双の大忠誠に比類なき」人物であったと宗像氏貞が称している文献も残っている。宗像家末期の天正13年には賢安の子種安が東郷に知行地を百五十町持っていた記録がある。宗像氏貞が亡くなった後、九州に下向した秀吉を出迎える為に、奉行達が人選したが、占部種安は眼病の為に推挙されなかった。

占部賢安・種安

社役の長であったという占部賢安。占部豊安を伯父とし、尚安とは従兄弟にあたる。一方、重鎮吉田重致を義理の父とした賢安は、宗像家の中枢にあった。永禄3年大友方に奪われた許斐城を奪回する際の功に対して、宗像氏貞は占部尚安の子尚持に鞍手郡の沼口村を与えようとするが、尚安は頑として受け取らない。辞退し続ける尚安を、賢安と吉田重致が説得した。又、尚安の孫貞保が、承福寺と山の境界線をめぐって争った時に仲裁したのも、この二人であった。更に、貞保が天正6年の宗像社本殿の遷座式の場において、着座をめぐり騒動をおこし、謹慎の身になった折にも、賢安は貞保をかばい氏貞に相手の不忠をしきりに訴え、争った大和氏の家を断絶に追い込んでいる。

賢安の嫡子種安はかつて毛利氏の人質として芸州に出されていた。もともと、宗像家は同じ九州勢の大友氏に服従せず、中国地方の覇者大内氏に従ってきたが、大内義隆が陶晴賢によって殺害され、大内家が滅びた後には、結局毛利氏を選んだ。しかし、新しい後継者宗像氏貞(鍋寿丸)は、陶を後ろ盾とし、陶晴賢が大友氏と結んだ為、一時期大友氏に従っていたから、毛利氏としても初めから信頼するわけにもいかなかったのであろう。

毛利元就は賢安の嫡子種安と共に重臣3人の子を人質として芸州に差し出させた。深田氏實の嫡子島寿丸(後の中務少輔氏榮)、吉田重致嫡子宮寿丸(後の内蔵大輔貞棟)、そして弥次郎(後の大膳進種安)である。後に永禄12年極月2日(旧暦12月)には人質を取り返したと宗像郡地誌総覧にはあるが、これは毛利氏が北部九州より撤退し、大友氏と和睦したからである。この人質の関係を見てみよう。

宗像家庶流深田氏
中務少輔氏繁┬美作守氏俊─氏實─中務少輔氏榮(毛利氏人質1)
            └女子(占部甲斐守尚安妻)
             ‖
┌占部豊安┬尚安──┬尚持─貞保
├(間省略)├(間省略)├(間省略)
┼        ├重安   ├女子 河津新四郎驩ニ妻 
├                └女子(吉田兵部少輔貞勝妻)
└女子(占部大膳進尚賢妻)
    │
 大膳進尚賢越後守賢安大膳進種安(毛利氏人質2)

                      ┌占部尚持妻(後妻となる)─貞保
吉田重致(伯耆守・法名宗金)─┬女子(占部賢安妻)
                            ├貞棟(毛利氏人質3)
                            ├(間省略)
                           ├女子(深田氏榮妻)
                            └貞昌─貞勝

この時尚安の子孫に及ばなかったのは、尚安は大内義隆が自害して後も、一貫して反大友氏を貫ており、毛利氏につくことを早くから決めていたからだろう。主君氏貞(当時は鍋寿丸)とその側近達に同調せず、嫡子尚持とともに毛利元就に拝謁して自らの意思を伝えると、厳島の戦いに毛利方として参戦した。その功により、信頼を得ていたものと考えられる。

 

占部重安は武士であることを疎み占部という姓を捨てて出家したといわれる。それで、明治になって再び姓を名乗る時にも、占部姓には復帰しなかった。 しかし、武士を捨てたといいながら、延楽寺には腑に落ちない点がある。まず、その立地である。先代住職によれば、延楽寺は高台に建てられ、周囲に堀を掘ったという。又現在JRの線路がある南側は昔谷になっており、すぐ際まで水が来ていたらしい。 寺の本堂を背にすれば東のかなたにこんもりとした曲村の森が見えるが、そこは河川に突き出た半島のようだったという。左側の地図はgoogleによる現在の地図である。又右側のものは古代の地図である。(新郡宗像第一号掲載分)勿論古代と中世では違いもあるだろうが、 右の地図をみれば昔すぐ近くまで水が来ていたという先代住職の証言が正しいことがわかる。しかしながら、このような立地は城を建てる時に利用するものである。寺には堀は必要ないだろう。 又屋敷の構造は三部屋になっていたが、奥の間は普通通り座敷になっており、一番手前は玄関先、ところが、真ん中の部屋は畳敷きにはなっているものの、その下は板の間になっていた。

延楽寺が建てられたのは天正2年であり、宗像家が大友氏との間で屈辱的な和平条約を結び、しばしの平和を手に入れた後である。宗像氏貞はこの時期辺津宮をはじめ領内の寺社を整備している。 それは、いつか再び和平が破られる時の為の準備であったとも言われている。神社仏閣は有事の時には即、兵舎として使えるようになっていた。 今は開拓が進んで周辺の様子からは昔を偲べない。