吉原の郷/八並

許斐山の西側八並には、本村・森・許斐町・郷か裏・山中・吉原等という小字がある。許斐山の吉原登山口に至る道のあたりが吉原で、左手に人家が並ぶ。唐津街道を上ってきた大友方の軍勢が内殿を通って八並に迫る。目指しているのは、許斐山である。許斐山城と麓の吉原の里城より宗像の軍勢が迎え撃つ。吉原村入口を中心に村山田の南側から八並村や久末村にかかって古賀原という古戦場があったという。

正面の小山付近が吉原村 右手奥に許斐山が見える

     
 

吉原源内左衛門の墓 

許斐山の吉原登山道の入り口に至る道の側に吉原源内左衛門の墓がある。昔は小さな石があっただけだったが、子孫によって幾度か修復されたようだ。

吉原登山口に向かう道、左の岡にポツンと立つ墓

永禄3年8月17日とあるが...

吉原源内左衛門

吉原源内左衛門は正しくは吉原源内左衛門典通という。勇猛果敢で、戦記にも名がよく残っている。ちなみに、許斐山に登る途中に麻生鎮氏の墓があるが、矢を射て討ったのもこの源内左衛門である。鎮氏の墓へ 

許斐山の南西、畦町の北に高宮岳がある。この山頂に高宮城があり、弘治4年(1558年)、古賀原で立花勢との戦があった時、吉原源内左衛門が定番(城番)であったと「宗像追考記」に書かれている。大内氏の時代には、この辺りは大内氏の直轄地で、高宮岳には直臣であった深川氏が住んでいたというが、弘治の頃は大内家が滅んだ混乱期であったから、腕の立つ源内左衛門をここに置いたのだろう。許斐山の西方、西郷にいた旧大内家臣達は宗像家と協力体制にあった。吉原の里城とともに高宮城は許斐城の出城として築かれ、唐津街道を上ってくる敵に備えた。なかでも弘治3年(1557年)の畦町河原の合戦は有名である。現西郷川河原橋付近が合戦場址という。(福間町史明治編)高宮城へ

吉原源内左衛門は、天正11年(1583年)3月15日に戦死した。同日、立花山の立花道雪以下大友勢が宗像郡内へ進攻。急報を受けて駆けつけた宗像氏貞勢と許斐山大手口の吉原で激戦となった。この時立花家臣薦野勘解由之丞に討たれたという。これをきっかけに宗像勢は崩れ氏貞は蔦ヶ岳城に退き、許斐山の籠城組は大島に逃れたという。吉原源内左衛門は剛勇の士として広く知られていたらしい。討った薦野勘解由之丞には大友義統より兜が贈られたという。

源内左衛門の墓について

源内左衛門の墓は平成10年4月に吉原哲男氏によって再建された。氏は他界されたが、生前自分の先祖は占部姓であったと言っておられたそうである。墓は昔の墓石の上に被せるように建てられたそうだ。 墓碑には「吉原源内左衛門貞安」と書かれ、「永禄3年8月17日」と刻まれている。貞安といえば占部尚持の弟である。天文5年(1536年)正月に生まれ、初名は、五十治丸。同22年(1553年)4月17日元服。幼名を守安といい、新五郎、後に源内右衛門貞安と名乗った。ここで、吉原源内左衛門典通と、占部源内右衛門貞安と似たような名が挙がってくるのだが、筆者は別人ではないかと考えている。それと、吉原源内左衛門が亡くなったのは天正11年(1583年)3月15日で、永禄3年(1560年)8月17日ではない。

天正11年に源内左衛門が討たれた話は、 薦野系譜に載っている話であり、宗像氏側の記録にはない。「宗像記追考」においても、この戦の記録はあっても、そこに源内左衛門の死に関する記述はない。言い伝えでは、やはり永禄3年午後の激戦で討死したことになっているらしい。観音堂下の急な坂道を少し下ったところであったという。(福間町史明治編より)もしも吉原源内左衛門典通=占部源内右衛門貞安で永禄3年(1560年)8月17日に亡くなったとしたら、同日亡くなった兄、占部尚持の為に父が建てた寺に共に祀られたはずである。一方、天正11年には討った薦野氏には書状のみならず、兜まで贈られているから説得力がある。

この墓は元々はただの石で、何も刻まれていなかったとの証言がある。地元の古老によれば、石は赤ん坊よりも小さく、吉原様と呼ばれていたそうだが、それが誰の墓とかそんなことは知らなかったという。福間町史に載っていた古い写真は、きちんとした墓石であったが、現在の新しいものとも違う。更に、向きも現在とは反対向き、すなわち許斐山を背にして建てられていた。この墓所には他にも近在の人達の墓があって、毎年お盆に墓地の掃除をしていたが、今はこの奥にある納骨堂にまとめられ、この墓一つが残された。

宗像家臣団の中には古くから吉原姓が見受けられ、吉原源内左衛門尉宛ての宗像氏貞の感状とともに、吉原大炊助・善三郎宛ての感状が一緒に所蔵されて残っていることから考えて、吉原大炊助・善三郎は源内左衛門の先祖と推測される。代々功績多い家柄なのだろう。共に嫡男と思われる吉原七郎が加冠されて繁通と号した時の宗像氏貞発給文書が残っている。吉原源内左衛門一人が討たれたせいで、宗像勢が総崩れになるほどの人物だとすればすごいことだ。この豪勇を許斐の城を護った占部尚持・貞安兄弟と合体させたような墓であるが、万一占部貞安=吉原典通でなかった場合には本人達に気の毒である。占部氏としては豪勇英傑が先祖になれば光栄な話であるが、その為に吉原家の功績を奪ってしまっては申し訳のない話である。ちなみに占部源内右衛門貞安は天正11年の後も、生存していた証を残している。

墓は道路脇2・3メートルほどの高さの切り立った岡の淵にあって、目立つことこの上もない。命をかけて宗像を守ろうとした豪勇の士が、今も人の往来を見つめている。

 

吉原観音堂

吉原村の道を許斐山に向かって行くと、左手に崖の急斜面を上がる細い階段がある。

 

登っていくと観音堂があった。

宗像四国西部霊場
本尊十一面観世音菩薩
八並第六十二番

 

何やら古い祠がある

福間町史によれば、このあたりに昔吉原寺があって色定法師が悲願の一切経を写経したという。

色定法師:鎌倉時代に一切経を原本として、5048巻全部を写し、これを宗像大社に献納した。同経巻数は宗像大社坊官興聖寺に伝わっていたが、現在は国の重要文化財に指定され 宗像大社神宝館にある。

 

話に伝わる「観音堂下の急な坂道を少し下ったところ」というのはこの観音堂付近の事だろうか。

 
<今宮社>
占部尚持は永禄3年(1560年)8月17日の戦で負傷。切られた足で許斐山の城に戻ろうとしたが途中で息絶えた。亡骸は八並に葬られ、吉原の山中に今宮殿として祀られた。系図には「吉原の山中というところに祀った」とあるが、この山中という言葉がまた厄介である。実際、吉原の南に山中という小字がある。文章からすれば、ここに祀ったとも考えられるが、吉原と山中は同格の小字名であるから、もしかすると吉原の山の中の意味かもしれない。そう考えると、この観音堂のある小山がすこぶる怪しく思えてくる。
どのみち、天正年間に、嫡子貞保が上八村の自宅に移したから、その痕跡も残ってはいまいが...

吉原溜池

 

寛文6年(1666年)の築堤。それまでこの辺りは深い谷になって狭い段々の湿田であったと考えられている

 

池を過ぎて吉原村の奥へと進む

吉原の里城に関しては「吉原の里城」のページをご覧ください。吉原の里城へ