春日神社/福岡県鞍手郡宮田町大字倉久

世界遺産で知られる奈良の春日大社は、奈良に都ができた710年頃、藤原氏の手で創建された。 藤原氏の祖神でもある天児屋根命を含め四柱を祀る春日神社は藤原氏の繁栄とともに全国に広がった。 この鞍手郡宮田町にある春日神社も、大和より四柱を勧請して建てられたものである。宗像大宮司興氏の時占部兵庫を神職として新たに任じたという。

 
   
 

占部(卜部)氏を古代までさかのぼれば天児屋根命(あめのこやねのみこと)に達する。父である興台産霊神(こことむすびのかみ)と同じく、高天原で祭祀をつかさどり、天照大神の侍臣として仕えた。

天照大神が天の岩戸に隠れた時、岩戸の前で祝詞(のりと)を奏する役を務めことで知られる。 後に、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に従い、国政に参与し国土経営を助けたという。

藤原氏はその始祖を中臣(晩年藤原)鎌足としているが、鎌足の嫡男藤原不比等の家系のみが藤原を姓とした。その元である中臣氏は卜部(占部)氏と根を一にする古族である。この三氏は朝廷祭祀を中心として深く結びついていたが、政治の場を舞台とする藤原氏の陰で、神仏習合の波にさらされた中臣氏や卜部氏の存在感は薄れた。

 
 
     
 
 

春日神社由緒

祭神: 天児屋根神・武雷神・経津主神・比淘蜷_

由緒:(宮田町誌を元に執筆)平安時代の初め延暦年中(782−806)、当地に流れて来た清原朝臣右兵衛佐重光が、故郷大和国三笠山の春日大明神を勧請したことに始まるという。

後に人皇61代朱雀院天慶2年(939)、正三位中納言藤原千歳丸が下向し宗像宮を司ったが、その時領内の神社祭事を怠ることなく施行した。殊に春日の社は 太祖神とて神田を寄付し年中祭事を熱心に行ったという。

下って、文明6年(1474年)宗像大宮司興氏が領内を巡回された時、吉田飛騨守と占部日向守、許斐安芸守がお供したが、この社にも立ち寄られて参拝し、太刀一腰を納められた。又、神職を占部兵庫に改められ、宗像氏の一字を授け、代々宮仕えさせたことが神主家の系図に書かれているという。

代々、宗像大宮司の崇敬に与ったが 戦国末期宗像氏貞の敗亡に伴って宗像家が断絶し、小早川隆景入封の際に、社領・神田ことごとく没収された。寛永18年(1641年)に倉久などの産神として再興されたという。

藤原千歳丸?

宗像家には清氏は、宇多天皇(867-931)の末子、或いは桓武天皇の子、太政大臣清廣の猶子となり源姓を賜わったとの話が伝わっている。源清氏が京より下向したのは延喜14年(914年)醍醐天皇の時であったとされている。

前記の由緒に「人皇61代朱雀院天慶2年(939)、正三位中納言藤原千歳丸が下向し宗像宮を司った」という記述があるのは、どうみてもこの大宮司下向のことと思われるのだが、年号も、名前も違っている。前者が広く一般に認識されているのに対し、後者の内容は筆者が初めて出会ったものである。

清氏とされる人物が下向したという話とともに、清氏という人物が実在したかどうかということに至るまで、すべてが疑わしいとされている一方、春日神社を尊重したのが本当であれば、藤原氏の流れの人物であったと考える方が妥当と言えるかもしれない。ただ、千歳丸は幼名でそれに正三位中納言などと付けていることからしても疑わしいと思わざるを得ない。下向の真偽はともかく、古族である宗像氏の系譜を朝廷に結び付けるために無理な工作が行われたことだけは推察できる。詳しくは宗像氏の項に譲ることとしよう。