妙湛寺/宗像市陵厳寺

元亀元年(1570年)正月15日、河津隆家は宗像氏貞の招請を受け、岳山城において饗応を受けた。氏貞は兼ねてより隆家暗殺を謀り、家来大勢に命じて、所々に兵を置いて待ち伏せさせた。隆家はそんなこととは露知らず、もてなしの礼を申し上げ帰途についた。途中、岳山の麓妙湛禅寺にさしかかると、伏兵が押し寄せ言葉も掛けず隆家を討ち取った。氏貞が隆家の首を即刻立花城に送ると、大友方の三老は大いによろこび氏貞に書を送った。又豊後に注進したので大友宗麟より、感書が贈られたという。「河津伝記」参照

 

城山の麓にある妙湛寺

 

禅宗 見龍山 妙湛寺

 

本堂

 

正面向かって左にある薬師堂内

 

筑前国続風土記拾遺に「古像にして秘仏なり」との記載がある薬師大如来

 

正面向かって右側の地蔵堂内

 

地蔵大菩薩

河津隆家暗殺の真相

大内義隆の自害以降、河津氏他西郷衆は陶晴賢が立てた当主、大内義長に仕えたが、間もなく義長も毛利氏に討たれ、大内家が滅んだ。大内氏の直臣だった河津氏他西郷衆は、大内家の滅亡とともに職を失った。もともとの在地領主でなかった彼らは、領地にとりはぐれる危機に直面していた。

その昔、鎌倉幕府の北条氏とともに九州に来た河津家は北条氏が滅びた後、足利尊氏に味方して戦功をたてて命をつないだ。その後衰退したが、大内氏を頼って家臣となり、再び盛り返した。今再びお家存亡の危機に直面し、頼るべき後ろ盾を見極めなければならなかった。

大内氏と河津氏 弘業−興光−隆業−隆家

河津氏の住んだ西郷福満庄は大内氏の直轄領と、高鳥居城(糟屋郡須恵町)の城衆の所領とされ、大内氏の筑前経営の拠点であった。河津弘業の時、一時筑前守護の地位は少弐氏に渡された。応仁の乱で大内政弘が上洛すると、その隙をついて少弐氏が筑前における勢力を挽回しようと迫る。河津弘業は長門に逃れ、大内政弘より長門の内に領地を受けてそこに住んだ。 文明10年(1478年)になって、大内政弘が九州の奪回に乗り出すと、河津弘業は福満庄の旧宅に戻り、西郷福満庄内料所の代官職に補任され、大森社の管理も任された。弘業は高鳥居城をはじめ、大内氏直轄領だった西郷の管理を任され、糟屋郡代を務めるなど以前にも増して大内氏の筑前経営において中心的役割を果たすようになる。

弘業の跡を継いだ興光は大内義興につかえ、義興とともに上洛、船岡山での激戦から九死に一生を得て帰国した。興光は大内義興とともに長らく京にいたが、帰国後は鞍手郡の郡代も務めている。

興光の子隆業の時になると、大内義隆は筑前国内各所の地を宛行い、その代官職を命じている。しかし「河津氏の所領は散在して不知行となった給地も多く、その経済基盤は脆弱だったため、本拠地西郷の基盤を固める必要があり、郡代などの役職を利用しながら権力基盤の拡大をはかった」という。「福間町史参照」

大内義隆死後

河津隆業の弟隆光は、陶隆房(晴賢)反乱の折、大内義隆とともに自害した。その後隆業は出家し、所領を嫡子隆家に譲ったが、天文22年(1553年)2月に病死した。山口では大内義長(第20代当主大友義鑑の次男で母は大内氏)が陶晴賢の傀儡としてたてられた。大内家直臣の河津氏としては、傀儡と知っても大内家当主である限り義長に従うしかない。

その頃お隣の宗像家は今だお家騒動の真っただ中であった。寺内治部允(丞)秀郷など陶氏方の取り巻きをつれて亡大宮司正氏の庶子鍋寿丸が山口より宗像へ入部。在地の抵抗勢力を一掃する。宗像家も又陶晴賢の思惑どおり新当主大内義長に従っていた。

しかし、陶晴賢を逆賊とする旧大内家臣や大内氏方諸将達の抵抗はなかなか収まらない。大内義長は抵抗勢力へ兵を送る。当然西郷衆や宗像家にも要請が来るが、それに順応しつつも内心複雑である。抵抗勢力といっても、旧大内家の支持者達と刃を交えることはどうにも気が進まない。大内義長は求心力の弱い味方勢力より、生家である豊後の大友氏を頼みとし協調路線をとる。この間、河津隆家の舅であった宗像家の旧臣占部尚安は密かに毛利氏を頼ることを決心していた。やがて、陶晴賢が毛利氏によって滅ぼされ、大内義長が力を失うと、後ろ盾を亡くした幼い当主鍋寿丸を中心に、方針の決まらない宗像家中の者達を尚安が説得する。尚安はおそらく娘婿の河津隆家にも毛利氏につくことを勧めていたであろう。

占部尚安と河津隆家

占部氏は宗像家の古くからの重臣であったが、戦国時代に入ってからは武家としてその評価を高めた。占部尚安の曽祖父は宗像大宮司氏澄の娘を妻に迎え自らは宗像中務少輔氏繁の娘を妻とした。又祖父は大内家家臣内藤掃部助弘重の娘を妻とするなど、宗像家や大内家臣と縁戚関係を結び、重臣同士の縁戚関係も多く、特に吉田氏とはつながりが深い。又、尚安の時代は戦乱激しく、嫡子尚持の妻には宗像領の東側の山鹿城主麻生形部少輔家助の娘を迎え、長女を宗像領の西側の河津掃部允隆家に嫁がせた。その他、近隣米多比氏や河津氏以外の西郷衆などとも婚姻関係を結び、宗像領の保全に心を尽くしている。

河津隆家と縁戚関係を結んだのは大内義隆の指示によるものであったという。当時許斐城を護っていた尚安の一族と西郷衆の筆頭河津氏を結ぶことで、立花勢力(大友勢力)に対する防衛を強化しようとしたのである。河津家の格の方が高かったが、混乱期の中、父も叔父も亡くした若い隆家にとって、50過ぎの百戦錬磨の舅、尚安は頼もしい存在であったに違いない。その後の大友勢との攻防において、尚安のそばを離れず、常に運命を共にしている。

河津隆家の願い

永禄年間、北部九州は毛利氏と大友氏との覇権争いが続いたが、永禄12年(1569年)毛利軍が大軍を送ってくる。3月には毛利軍4万余が門司城奪取。4月、小倉へ陣を張った。吉川元春・小早川隆景は博多津より、筑前へ進撃、 立花城の攻防が始まる。5月には立花城が開城した。あと一息という時大友宗麟は庇護していた大内義興の甥大内輝弘を周防に送り込んだ。山口を占領された毛利軍はわずかな兵を残して一夜のうちに撤退してしまった。宗像勢は蔦が岳城に籠城。領民や家臣は大島に避難した。結局取り残された毛利方の筑前諸将は大友氏に下ることを余儀なくされた。

毛利元就は永禄12年5月、立花攻めに加わった河津隆家に戦後本所領を回復することを約束していた。隆家は失った大内氏の代わりに毛利氏と同様の関係を築きたいと願っていたのだろう。「宗像記追考」の記述からすれば、永禄3年から4・5両年の三年間に氏貞が彼らの領地を切り取ったという。しかし、氏貞17・8歳の時であったというから、氏貞の意思がどの程度あったのかわからない。大友方の軍勢が押し寄せたこの時期、取ったり取られたりの混乱の中、大内家支配時代の取り決めが無効にされたとしても不思議はない。しかし結果として、河津氏他旧大内家臣達は領地を奪われ急速に弱体化した。隆家は毛利家より直接領地を安堵されることで、家勢の回復を目指したのだろう。

毛利軍が撤退した後、隆家は他の宗像家臣とともに蔦が岳の城に籠城した。これに対し、11月氏貞は感状を送り、西郷内の隆家の所領と代官職を預け置いた。又、嫡子万千代丸への譲渡も許諾している。河津隆家は、自らの所領について始めは毛利氏に、毛利氏の撤退後は、宗像氏貞に請願している。領地を何とか護ろうと心を砕く隆家の姿である。

大友氏への降伏

さて、毛利氏撤退後、大友宗麟に下ることになった宗像氏貞であったが、宗麟にとっては、宗像氏貞が一時的に降伏したとしても、過去を考えれば信じることができない。厳重な監視と抑えをかかすことはできなかった。西郷は宗像の防波堤のような役割をし、戦い抜く西郷衆のおかげで大友軍は度々煮え湯を飲まされた。なんとしても西郷衆を取り除きこの地に家臣を送ることで宗像への抑えとしたかった。

宗像氏貞は和睦の時、若宮と西郷をしばらく宗麟に預け置く約束をしたという。宗麟としては、本来一気に取り上げてしまいたかったところだろうが、西郷衆が簡単にこの地をあきらめるとは思えなかったのだろう。そこで、まずは預かるという形をとり、反対派の核となる河津家の当主隆家を抹殺することから取りかかる。

宗麟は氏貞に隆家暗殺を命じたという。氏貞に殺させたのは、大友氏に対し二心ないことを表すためだという。元亀元年(1570年)正月、氏貞は、岳山から帰途に就いた隆家を討ち、その首を立花城に送った。このことを踏まえて、同年臼杵鑑速の娘を宗麟の養女とし、宗像家に輿入れさせた。翌年には氏貞の妹が立花城主戸次鑑連(立花道雪)に嫁いだが、嫁いだといっても人質同然の輿入れであった。氏貞はこの時返却されていた西郷300町を化粧料として差出し、西郷に住んでいた旧大内家臣36名は若宮に移されたという。

大友氏に降伏する直前、氏貞は隆家に対し、西郷内の所領と代官職の預け置きを約束し、又、嫡子万千代丸への譲渡も許諾していた。それなのに暗殺というのは完全な裏切りである。しかも、西郷衆との同盟関係に亀裂を生じれば、氏貞にとって大きな損失である。しかし、この要求をのまなければ、大友氏方からさらに都合の悪い条件を提示されることもわかっていた。和睦というが実際は降伏なのである。

暗殺の裏

「宗像記追考」には隆家が大友方に内通したことが露見したために討たれたという説が記載されている。毛利軍の立花攻めの折、氏貞は飯盛に陣を構えていたが、毛利軍撤退の後に岳山に帰城した。豊後勢の来襲に備えて城を堅固にし、籠城しているところに、河津隆家が来て、譜代の衆と生死を共にしたいという。後日この忠節に対し氏貞は感状を出したのだが、実はこの時、隆家は大友方に内通しており、城中に籠って豊後勢が攻めかけるとき、城中に火を放って裏切るように命を受けていたというのである。見返りとして宗像領の三分の一を約束されていた。これに対し氏貞も思い当たることがあり、又後日その証拠を申し立てる人も出てくるなどして裏切りが明らかとなったのだという。

実際のところ、河津隆家に対して、大友方からそのような話が持ちかけられたとしても不思議はない。河津氏他西郷党が大友氏の側についてくれさえすれば、ずいぶんと無駄な労力もはぶけただろう。しかし、誘いがあったにしても頑固に拒否したのだろうと推測する。寝返らなかったために抹殺されたのである。事実として、隆家は岳山に火を放つこともなく、裏切った痕跡もない。内通したので打ち取ったのであれば、立花城に首を送ったとか、それに対し宗麟から氏貞に感状が出されたとかの話もつながらない。思うに、この説は、感状を出して、所領を安堵しておきながら裏切ったことへの言い訳であり正当化である。又、領地を切り取ってきた上見捨てたとなれば、他の西郷衆の信頼を完全に失うことにもなりかねなかったのだろう。宗麟にしてみれば、この悪行に西郷衆の心が氏貞から離れることを願ったのかもしれないが、それでも西郷衆が大友氏につくことはなかったため、結局若宮に追い払うことになったに違いない。

事件の後

河津隆家が裏切ったのではないことを実は誰よりも氏貞が知っていた。表向きは内通した隆家を成敗したとしながらも、子供達は重臣占部尚安の孫だからという理由をつけて助け、逆賊の罪が及ばぬように保護した。氏貞は隆家の嫡男に晴気次郎氏澄を名乗らせ側近く仕えさせた。天正14年(1586年)三月四日、氏貞逝去の折、晴気次郎はわずかの人数とともに氏貞を見送っている。次男は小倉五郎貞広を名乗ったが、兄弟共に後になって河津姓に復姓していることからすると、存在を目立たなくする為に一時期改姓していたものと思われる。ちなみに晴気は宗像社領だった肥前の晴気から取ったもので、旧宗像大宮司氏澄と同じ名を与えていることからしても、特別な配慮を感ずる。

大きな苦痛と屈辱に耐えた代価か、その後天正9年(1581年)までの10年余り、宗像にしばらくの平和がもたらされた。氏貞は領内の政務に集中し、天正6年には悲願の宗像社辺津宮の本殿造営を成し遂げた。この間10年余り、若宮に移された西郷衆は苦汁を嘗め、大友氏にとって目障りな占部氏他反大友方の家臣達は息をひそめて不遇に甘んじるより他になかった。天正9年( 1581年)鞍手郡内吉川庄でいわゆる小金原合戦が起るまで、西郷衆の心には憤りの火種がくすぶり続けることとなる。

追記>福間町史によれば、河津新之丞氏澄は宗像家滅亡後、小早川隆景に属し朝鮮征伐で勲功をてたという。氏澄の嫡男祐広は小早川隆景の養嗣秀秋に属したが、秀秋没後は黒田長政に仕えた。現代に至り、その子孫は旧亀山城の南の麓に居住しているという。

 

隆家が通った道か。今はここから登山道には出られない