吉原の里城/八並

許斐山の西側八並に吉原という小字がある。吉原登山口に至る小道を入ると左手に人家が続く。吉原源内左衛門の墓を過ぎ、右手に吉原池を見ながら、吉原観音のある小山を過ぎる。筑前国続風土記拾遺巻之(五十二)には、吉原の人家の上に治部谷左近屋舗という処があって、これが許斐城の里城の址で、城の追手口だと書いてある。里の人に聞いたが、皆城があったといえば許斐山の城のことしか頭に浮かばないようである。長年決着を見ずに来たが、得た情報の範囲で推測地を限定してみた。

     
     

「昔語り 福間あのころ」という本がある、福間教育委員会が発行したもので、福間の古老たちが昔を語り、それを話し言葉そのままに編集したものである。その中に吉原の里城に関する手掛かりがあった。

篠崎さん方の元の家から上っていくと左側に畑がある。下は右近屋敷といい、その上が「ジュウトンダン」という。その字は『治部殿谷』と書く。

「ジュウトンダン」というのは『十殿谷』とも書かれ、治部何某という人の屋敷があったからとか、十人の武将がいたからとかさまざまな説があるが、それは大した問題ではない。ここにある篠崎さんの元の家を探してみた。現在許斐山の登山客用に駐車場になっているところに吉原村の篠崎さん本家があったことまで突き止めた。この駐車場に車を止めて、登山道に入る。「福間あのころ」に治部殿谷の写真が載っていたが、それと同じアングルを探しながら山に登る。間もなくその場所を見つけた。

村の最奥部に駐車場が見えてくる

 

昔篠崎さん宅があった駐車場の前から登山道に入る

 

登山道入口付近で村中を流れていた清流を渡る

 

治部殿谷
上り坂の途中、左側は崖の斜面、右側は5・6m下に清流が流れる。本にはここが治部殿谷と書かれている。

 

左手崖の手前に左に分け入る小道がある

 

今まで見過ごしてきた小道に入る

福間町史明治編の記述を転記してみる。

吉原の里城と呼ばれている武将たちの館は、山麓の十殿谷(じゅうとんだん)、右近屋敷と現在呼称している場所と思うが、そこは、渓谷の川の流れに沿うて点在する農家の、一番奥まった、谷の悠々深くなった処で通路は鋭角なカーブを描いて左折し、しばらく行って右折して、しばらく平坦な道路を行った処にある。
道路が、左折してから右折する処までは、谷の尾根を掘り割った登り坂道で、これが所謂城でいう軍学者の築城技術の一部である。十殿と云うから十人の武将がいた、かどうかわ判らないが、少なくとも此処あたりが屋敷址と思われる広さと、平面な場所が二米位の高さを保って、段々になり登山口の急坂な場所まで続いている。前に登山道をはさんで川があり、清冽な水が流れている。
     

山の尾根を掘り割ったような小道を上る

 

右手の土手の上は平地が段々に続く

     

道は右手に折れる

 

道の上から見下ろすと段々がよく見える

     

この段々に建屋が連なっていたのだろうか

 

元の登山道に下りた反対側は清流が流れている。今は堰があるが昔は谷になっていたのだろう

追記(H23.10):先日、北部九州中近世城郭研究会の方にご同行願った。氏によれば、この段々周辺には古い木がないので、近年まで畑か何かで使っていたのではないかということだった。又この上は許斐山の尾根につながっているのだが、ここから先、上の方まで行かないと削平地がないそうだ。 城郭らしい建屋を造れる平地がない。氏が言われるには、里城は村里に近いために、人の手が入って大概地形が変わってしまっているので、痕跡を探すことが困難だという。又、同様の理由で当時の里城というものがどのようなものであったのかを知るのも難しいそうだ。吉原源内左衛門の墓があるあたりから、吉原観音、そしてこのあたりまで、本来尾根が続いていたのではないかということだった。吉原池も谷だったというから、今より天然要塞のような雰囲気の村だったのかもしれない。氏の説明によれば、現在残る地形からすると吉原源内左衛門の墓があるところの反対側あたりがあやしいという。400年間懸命に生きてこられた方々に叱られそうだが、何の記録も痕跡もなくなってしまったことが恨めしい限りである。

吉原村の前にある溜池は寛文6年(1666年)の築堤されたもので、それ以前は深い谷になって狭い段々の湿田であったに違いないという。溜池の道を隔てて反対側は観音堂のある小山だが、急勾配に切り立った斜面である。すでにこの付近から自然の要害が続いていたのだろう。実際、吉原の里城があったと思われる場所も含めて、許斐山に取り掛かるまでにも待ち伏せにふさわしいような場所が幾つもある。

永禄3年(1560年)8月17日の戦では、観音堂下あたりから里城あたりにかけて激闘が繰り返された。旧暦8月のことであるから、陽暦では9月である。秋とはいえ、今だ太陽は真夏を思わせるような暑さであったという。朝の五ッ半頃から夕七ッ頃というから、九時ころから午後四時頃までのことである。旗指物と、矢楯とホラ貝で、谷は埋まり、山は鳴動して物凄く、おびただしい屍の臭気に付近の百姓達は、数日の間食事を口にするものがなかったと古老は語り伝えているそうだ。「参照福間町史明治編」吉原の郷へ

占部尚持のこと

享禄2年(1529年)、占部豊安は乱世に備え、自らの所領であった吉川庄三百町と引換えに許斐岳城の再建を大内義隆に願い出た。その年許斐山を再建すると共に吉原に里城を築いて居城したといわれている。 大永7年(1527年)正月一日、占部豊安が許斐城を再建する二年前、豊安の孫春王丸が吉原の里城で生まれた。吉原の里城は許斐城再建の折に建てらたとされるが、実際は許斐城再建に先立って造られたようだ。

春王丸(尚持)の 母は時の宗像大宮司正氏の兄弟氏繁の娘であった。正氏は兄弟氏続と大宮司の座を争い、氏続を追ったが、まもなく大内氏に呼ばれて山口に出向し、大宮司の座は氏続に譲った。正氏は周防黒川郷を与えられ黒川隆尚と名乗ったが、留守中の宗像の守りを堅くする為、縁戚関係にあり、自分に近かった占部豊安を許斐城に置いた。春王丸(尚持)も、その父尚安も「尚」の一字は黒川隆尚から受けた諱(いみな)である。

14歳で初陣を飾り、翌年元服して弥六郎尚持を名乗った。山鹿城主麻生形部少輔家助の娘と婚姻、天文17年(1547年)には嫡子宮若丸が生まれている。同じ頃、尚持の妹は大内氏の勧めにより、西郷の亀山城主河津隆業の嫡子隆家に嫁いでいる。宗像の東の麻生氏、西の西郷党との同盟関係を強化する為の婚姻であったと考えられる。

天文20年(1551年)大内義隆が自害。同時に大宮司宗像氏男(黒川隆像)も亡くなると、亡正氏の側室の子鍋寿丸が宗像へ送られてくる。前大宮司正氏と近かった占部家であったが、幼い鍋寿丸の後見人は陶晴賢であり、大友氏と結んでいた。宗像家の跡継ぎ候補は一掃され、鍋寿丸が後継者と確定した後にも、占部尚安と尚持親子は、大友氏に下ることを良しとせず、密かに毛利氏に通じて厳島の戦いに参戦した。陶晴賢が毛利元就によって滅ぼされた後には、宗像家も毛利氏についたため、占部氏も、毛利氏と宗像氏貞(鍋寿丸)を助け、豊前、中国地方に遠征した。

厳島の戦い以降、弘治・永禄年間にわたり、北部九州の覇権をめぐり毛利氏と大友氏の攻防激しく、宗像の西の守りであった許斐山は立花山を拠点とする大友勢の攻撃を度々受けた。永禄3年(1560年)8月17日、前日から押し寄せた大友勢を吉原の里城で迎え撃った尚持は、敗走する敵を追った。途中、死人を装い倒れ伏していた兵に左の足くるぶしを切り落とされ、太刀を杖に許斐城の半ばまで行ったが、次第に弱りそこで死んだ。武勇に並ぶ人がなく惜しまない者はなかったという。宗像記へ

34歳の若さで戦死した尚持は八並村に葬られたが、後の人は尚持の為に山中に祠を建て、今宮殿と崇めた。その後天正9年になって嫡子貞保が上八村今居原宅の裏手に移している。今宮社へ
又、父占部尚安は、尚持の死後まもなく建興院を、永禄9年には隣船庵を我が子追悼の為に建てた。