占部末保の子孫達

朝倉市佐田の山奥に今も数件の占部氏が住んでおられる。車で山道を登って行くが、人っ子一人、車一台も見かけない。果たして行き着くのか心配になってきたころ、ようやく地元の人を見つけた。 尋ねた所、確かに道は間違いないらしい。しかし「そんなところに何しに行くの」と言われた。そう問われても不思議のない雰囲気である。

実はここに、占部六郎常有から30代余り続いている家がある。宗像家の最後を見届けた占部貞保の次男末保の子孫である。以下はここの一族の方々からいただいた資料にもとづいている。

大城長者昔語り

芳兵衛伯父はある冬の日、私にこう言いました。
「上の九郎次爺さん(大城長者と俗に言う)、それから末松伯父の両人は、日露戦争中に財産の整理をした。もう少し見合わせていたら、戦勝で急に金が多くなったからよかったろうに。しかし、当初はとても勝つ見込みはなかったからね。」
そう言いながら、自分達の祖先千葉以来の事について、色々と聞かせてくれました。その話を今日皆様の登山の土産話にと思い、占部の先祖が秀吉の九州征伐の為に大名の地位を追われ、標高5百メートルものこの山中に、お家再興を願いつつ潜入するまでのあらましについて簡単に述べさせていただきます。
その1 占部氏の始まり
宗像郡誌下巻に「桓武天皇十代の苗裔上総介忠常四世の後胤也、則千葉太夫常兼の二男常安、占部氏の太祖也、初号千葉六郎、頼朝公に従い、筑前国嘉麻郡内五百町賜り居を臼井邑にトす。因って臼井兵衛尉と改め」とあり、又一方鎌倉の本家では甥の千葉常胤は侍大将の地位につき、自分にも三人の男の子がありましたが、上からの二人は勅命により鎌倉に叛きました。
その2 宗像と占部
 郡誌に「 
 常安┬常則   ├常久    └兼安、占部六郎初名常有後兼安 兄常則・常久勅命を重んじて鎌倉に叛き京都に戦死す。
因って家領没収せられる。兼安ひそかに宗像大宮司氏国が家に至る。氏国愛育して、占部家の家督とす。占部家は宗像大神の祭祀を司り、宗像大宮司家において最長也。氏国が彼の家を継がしむる事故有り」とあります。

以上のように常有は宗像に潜入した後は姓を占部と改め、十六代もの永い間この地の笠木城を始め、古賀城、吉原里城、許斐岳城などの城主として、部下5百余りを擁し筑前一国中では秋月氏と並んで一方の旗頭でありました。

ここで一寸宗像氏のことについて述べますと、「楢葉乃末」誌に「人皇五十九代宇多天皇の御子清氏親王延喜14年中納言に任ぜられ、筑前一国を賜り、宗像三社の大宮司を勅命されて、七十九代氏貞卿に至るまで続いた。(その後公家と社家に分れる)」とあります。
その3 宗像家断絶
天正14年三月四日、主家の宗像氏貞卿が遷化なされましたが世嗣がありませんでした。天正15年秀吉九州征伐の後、天正16年に領地は没収されます。18代末保・19代利安の二人は黒田家に仕えました。
その4 宗像家再興
20代秀安の時、宗像家再興を計画、旧知の平松古賀大庄屋家に走ります。(郡誌に千葉弥兵衛とあり)
その5 大城長者
大城移住、21代九郎次は父の意思を継いで、佐田藪の庄屋に命じ、大城の地を一週間にわたり調査したところ、今のこの地点が露の浮き具合がよく、寝心地が一番良かったので住居と定め、二百三十余年前宗像よりの漠な軍資金並びに金銀財宝をこの山頂に運び上げました。勿論母方古賀家の加勢のあった事は申すまでもありません。
以来大城の財産は三里四方と言われ、明治後期まで高木の殿様と呼ばれました。町内の部落で大城の水田のない部落は谷吉部落くらいで、黒川に二、佐田に一の余米蔵が建ち、毎年取り入れが済むと兵糧を全部大城へ集荷しました。他に長渕に余米三百あり、それから昔の山野は植林しないで、大部分が櫨畑(ハゼハタ)で年産壱万俵は下りませんでした。その他山の幸はいうまでもありません。
その6 田植え祝い
長家の田植えが始まり、何日もしていよいよ田植え終了の時刻になると、誰彼の見境もなく泥投げ泥塗りが始まり、身体中泥まみれにならないと終わりませんでした。数十人で泥かけ祝いの後慰労宴となる習わしでした。
その7 信仰
長者は出身に相応しく、代々信仰が厚かったらしく、いたるところに神仏を寄進しています。又明治年間にコレラの流行した時など、志波円清寺にある経典を全部運搬し、佐田地区に病気が波及しないよう大祈祷を行いました。
その8 分家
徳川初期に、大城転住してより九代になりますが、五代前に上・下屋敷に分家したらしく、上段に長男が残り、財産の大半と千葉弥兵衛所持品等、又下段初め隠居地に弟息子を立てて本家を相続させ、先祖の位牌・甲冑・その他...従って佐田八寿堂職も引き継ぎました。
その9 大火災及び没落
下段は日清戦争前に、上段は日露戦争中にそれぞれ相継いで失敗。明治34年には原因不明の大火災が起こり、両家の土蔵二つ残して田家とも十棟が亡くなりました。内一軒は松の大木一本で全建築が出来ていました。その他、金銀財宝及び千両箱など、使用できなくなった物(タテカマス)七俵一瞬にして消え去りました。
その8 火種
ここは初めからマッチ(火打ち)は使用させず、樫の生木に火をつけて灰の中で保存していました。使用する時は大切に用いて、上にない時は下へ、下にない時は上へと...元文以来の聖火も明治34年の大火で完全に消えてしまいました。
その8 大雪
昔は特に大雪が多く、交通に困難でしたが、どんな大雪の日でも、大城の道だけは一番に通る事が出来ました。何故かと言うと、村の人達は借金願やお礼言上に、その他にも用件が多く、又長人最後の末松伯父は金の貸し付けはしたが、取立てのほうは余り出来なかった様で、そのためか毎日ニワトリの骨抜き及び鯉が生きたままタライに入れて泳いで登らぬ日はなかった。伯父芳兵衛最後に宗像再興は出来なかったが、高木の人の救いにはなったと言いながら雪靴作りの仕上げを急いでいました。

第二黒田騒動

長政から、忠之、光之に継がれた家督は、光之の長男綱之に継がれた。綱之の弟(長寛)綱政は、跡継ぎのなかった叔父の東蓮寺藩主黒田之勝のところへ養子に出された。 しかし、延宝5年(1677年)綱之が廃嫡となり、福岡藩に呼び戻される。元禄元年(1688年)には、父光之が隠居し、家督を継いだ。このとき、父の側近だった者達をすべて排除するなど、父光之と次第に対立を深める事となる。宝永4年(1707年)に光之が亡くなると、禅寺に蟄居していた兄綱之の処罰が解かれたが、綱之も翌宝永5年(1708年)54歳でこの世を去った。綱之の毒殺もささやかれる綱政だが、自身もそれから間も無く正徳元年(1711年)に亡くなっている。

占部氏系伝

貞保―┬守次(豊福周賀婿養子)――――――――貞次(新左衛門 上八村庄屋)
      ├末保(東蓮寺藩黒田高政仕手)――――┬女 占部新左衛門妻
      │ 妻、吉田壱岐守長利娘             ├女      
      │ 後妻、播州姫路中村四郎兵衛宗矩娘 ├早世
      │                                  ├良安―治部之進
      │                                  └伊安(利安)―秀安←―――┐
      └貞俊―――――――――――――――┬忠右衛門俊安――為利安養子↑ 
                                          └市郎右衛門末次―為俊安養子↑
宗像家の最後を見届けた貞保。その二男末保は黒田如水家臣、吉田壱岐守長利の娘を妻としたが、寛永5年(1628年)、末保43歳の頃に先立たれた。その後東蓮寺藩の黒田高政(1612−1639)に仕えたが、播州姫路の中村四郎兵衛宗矩の娘を後妻に迎え一子をもうけた。先妻との間にも男子がいたようであるが、一人は早世、他はわからない。

寛永20年(1643年)、後妻との間に生まれた子は元服して利安を名乗り、黒田長寛(綱政)に仕えた。(後、四郎右衛門利安という)寛永20年といえば、末保が島原の乱の後に上八村に蟄居していた頃である。東蓮寺藩黒田家も高政から之勝へと継がれていた。この之勝も1663年に若くして亡くなったため、利安は次の長寛(=綱政)(1659−1711)に仕えたのである。

延宝5年(1677年)、本家の黒田綱之が廃嫡されると、長寛は東蓮寺藩より呼び戻され綱政を名乗るが、それと同時に東蓮寺藩は本藩に併合された。元禄元年(1688年)、父光之の後を継いだ綱政は、光之配下の重鎮達の追い出しにかかる。

戦国時代の死闘からは抜け出したものの、黒田藩では長政から忠之・光之・綱之と弟(長寛)綱政に至るまで君主の交替の度に起こる騒動に家臣達も振り回された。それは、親子の確執であったり、新旧勢力間の確執であったり、主君の横暴であったり、理由は様々であったが、たとえ重臣といえども出奔せざるを得ない事態に陥る事もあり、主君の機嫌を損ねればあっという間に領知は没収されて浪人となる。城勤めもなかなかに厳しいものであったようだ。

占部利安の家督を継いだのは秀安であるが、実は秀安は利安の従弟忠右衛門の実子である。忠右衛門は弟市郎右衛門の子を養子に迎えて跡継ぎとした。実父忠右衛門が黒田家の 重鎮井上周防入道道柏に追従して遠賀郡黒崎に住んだという話を前にした。 この井上周防入道柏は黒田長政の筑前入国の折、黒崎城の築城を命ぜられ遠賀郡一円で一万六千石を領したが、孫の代で出奔。その後井上家は断絶した。

又、忠右衛門の弟市郎右衛門は「父祖ともに微禄に甘んじて、黒田家に仕えたが、万事何かとかみ合わないことが多く、面白くない日々を耐えていたが、悲憤痛恨の極みに至り、断然と意を決し、子孫がお家を再興する時が来るのを待つべく、先祖伝来の槍釼を捨てて鋤鍬を握り帰農した」という。古巣を離れて他家に仕官したものの新参者として居心地もよくなかったのだろう。

東蓮寺藩に仕えた利安の父末保が、命に背いてまで島原の乱に出征することを望んだのも功を立てて自らの存在を認めてもらいたい一心だったのかもしれない。宗像家の家臣達は家の消失によって古巣を失い自らのアイデンティティーを失った。2代・3代・4代・・・時代はどんどん移り変わっていく。押し寄せる波に流されながらも、必死に生きた。ふたたび宗像家が返り咲くことを夢見ながら...。

千葉秀安
忠右衛門の子として生まれ、利安の養子となった秀安だが、一体その身に何が起こったのだろうか。上記の昔話では「宗像家再興を計画し、旧知の平松(比良松)古賀大庄屋家に走った」とある。又、古賀家中興系譜によれば、「宗像大宮司家臣故有て占部姓を千葉と改め、当家へ来る。(千葉弥兵衛を名乗る。)後、血統なるを以って、七代重栄養子とす。嫡子佐田村住」とあるそうだ。次の代で再び占部姓に戻るが、占部を名乗れなかった理由とは何であろうか。既に述べたように秀安は黒田長寛(=綱政)(1659−1711)に仕えていた。長寛は東蓮寺藩より呼び戻され綱政を名乗って福岡藩を継ぐ。東蓮寺藩は本藩に併合され、綱政と前君主光之配下との軋轢が起こる。そんな中で何か厄介なことに巻き込まれたのだろうか。

お家再興の為の莫大な資金があったというが、にわかには信じ難い。又、宗像家再興の計画がどこまで具体的に立てられていたのかも不明である。しかし「大城の財産は三里四方と言われ、明治後期まで高木の殿様と呼ばれました」という話も、現地に足を運べばあながち作り話でもなさそうだ。電気も通らない不便な山の上で連綿と家を守ってきた人々がいる。水も自ら引いたという。現実にはならなかったが、遠い先祖が抱いた希望と夢が子孫の血の中に生き続けているのだろう。

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