占部氏の始まり

占部氏を語るとき、宗像大宮司家の古くからの家臣としての占部氏と、後に臼井氏より姓を変えた占部氏と二つの流れをみなければならない。 臼井家の兄弟(常則・常久・常有)は、承久の乱の時後鳥羽上皇に味方し、北条氏に弓を弾いた。兄二人は戦死し領地は没収、弟の臼井常有は幕府の目を避けて九州宗像大社の大宮司宗像氏国を頼った。氏国常有を庇護し自分の古参の家来だった占部氏の戸籍があいていたのを継がせたという。

常有占部氏を名乗った時、他に占部氏を継ぐ流れが残っていたのかどうかはわからない。占部氏は、元々宗像大社の祭礼をつかさどり、宗像氏の家中では古い家柄であった。占部家の系図は現在幾つか残っているが、いずれも常有を先祖とするもので、元々の占部氏からつながる系図を見たことがない。ただ現存の系図の冒頭には 占部家の由来が書いてあるものがあって、その内容を見ると元々の占部氏について残された記録であると思われる。以下にそれを転記する。

占部氏系伝記

占部氏は元 天兒屋根命(あめのこやねのみこと)12代の孫雷大臣命(いかつおおみのみこと) 始めて仲哀天皇の御時卜部姓を賜ふ。雷大臣命から6代の孫常磐大連(ときわのおおむらじ)卜部姓を改めて中臣姓とす。 常磐大連の曽大職冠鎌足(たいしょかんかまたり)其の従弟(いとこ)右大臣清丸をして神道中臣姓を継がしめ 其の身は藤原姓となる。清丸は意美丸の子なり。清丸の曽孫平丸 大中臣(おおなかとみ)を改め、又卜部となる。爾来(=以来)世々詞部を掌(つかさど)り、今山城国吉田を以って正嫡とす。又同国松尾筑前国胸肩大神に従ひまつるあり。 然れども今、我が占部家においては平姓を用ふ。系図記及び宗像大神の旧記等も又しかり。享保14年2月3日大災に罹(かか)り宝物什器(じゅうき)(=日常使用する器具・家具類等)殆ど灰埃に帰せしむ。

この記述の前半は壱岐氏から出た卜部の系図で、この流れから社家の吉田氏が出たという。吉田氏は後に吉田兼好を輩出したことで有名になった。 『宗像記』によれば、昔宗像には「宗像四任(しとう)の家」というのがあって、占部・吉田・大和・高向がそれだという。この四家の元祖は宗像氏の元祖清氏が九州に下向した時お供して来たが、この四人は任官叙位して仕えたので”勅下の四任”と呼ばれたとある。以来この四家は代々宗像家の家臣として仕えてきた。前記の「占部氏系伝記」は何時、誰が書いたものか全く判らない。系図に関心の深かった何代目かの占部何某がどこかで調べてきたものを、そうだろうという予想の元に書き残したものか、代々語り継がれてきた真実なのかはわからない。ただもともと宗像家に仕えた占部氏がいて、その戸籍に平姓臼井常有が入ったことだけは事実だと思われる。

常有とその兄弟が承久の乱の時何故上皇方についたのかはわからない。西国は上皇方、東国は幕府方との大まかな領域はあったが、どちらを選ぶもほとんど時の成り行きで一族相別れて戦った。常有が何故宗像家を頼ったのかも又なぞである。

承久の乱から

宗像氏は古来より宗像神社の神主であった。914年に源清氏が京より下向して宗像氏を継ぎ、大宮司職に着任してから代々大宮司職を受け継ぎ宗像の地を治めた。宗像神社の社領をはじめ領地を開墾拡大し、又玄界灘の玄関口にあたる地の利を得て中国や朝鮮と貿易をした。しかし治めたといっても地方の一勢力に過ぎない彼らが領地を守り抜くのは容易なことではない。より大きな勢力の狭間で興隆没落を繰り返しながら次第に武士化し、歴史をつないだ。平家全盛時代には平家方に属し共に宋との貿易に力を注いだ。しかし頼朝が挙兵して後には源氏方に転じた。おかげで平家滅亡の折にも、原田・山鹿・菊池氏ら九州の平家方の有力武士は所領を没収されたが、宗像氏ら中小武士らは許されている。 承久3年(1221年)、後鳥羽上皇と幕府の間で承久の乱が起った時も、当時宗像社領は後鳥羽上皇の支配下にあり、上皇方に味方するのが自然であったが鎌倉方についた。確かに税ばかりを取り立てて現実には保護する力のない朝廷より幕府に属して庇護される方が安泰と考え、朝廷より幕府を選ぶ者も少なくなかった。承久の乱の後、領地は幕府領となり三浦泰村預所(あずかりどころ)となったが、幕府の庇護の下で大いに興隆する。

ところで預所となった三浦泰村の祖母は臼井常忠の妻と姉妹であり両家は縁戚関係にあった。三浦義村千葉常胤とともに幕府の有力御家人であり、娘を執権北条泰時の妻とし、又嫡子泰村泰時の娘を娶らせて幕府内に確固たる勢力を築いていた。宗像領が幕府領となり三浦泰村の管理下にあったことも常有が宗像家を選んだ一つの理由だったかもしれない。

【系図=三浦氏との縁戚関係】

            伊東祐親┬娘 臼井常忠妻─常有
                    ├娘 三浦義澄(1127-1200)妻─三浦義村─三浦泰村
                    └娘┬源頼朝(1147-1199)                
                        子

もっとも、三浦義村も、その子泰村も宗像家にとっては迷惑な存在だったらしい。親子ともども預所の地位を以て社家をかすめ取り、宗像の領知を押領した。これに対し大宮司氏国は上洛して義村の不義を訴え、院宣を賜っている。又、泰村の時には、大宮司氏業が鎌倉に赴き将軍頼嗣に訴えている。この時氏業泰村と対決しようと決意していたが それも泰村の権威に抑えられて叶わなかった。その遺恨もあってか、後に幕府内での威勢を疎まれて三浦氏が追討された時には戦場に赴いている。(H24.6追筆)

占部氏目次一覧
筑前宗像争乱 宗像記
歴史の中の占部氏を追います   宗像記他からの抜粋を少し簡単にしました
     
その1 鎌倉時代と南北朝時代   序文
その2 大内氏とともに   宗像記追考冒頭文
その3 許斐城戦記   山田の後室−最後の別れ
その4 宗像氏貞時代   多賀隆忠合戦
その5 宗像家の終り   許斐氏任の謀反
その6 黒田藩のもとで   古河原合戦
大城長者昔語り   氏貞岳山開城 1)大嶋へ
福岡藩に仕官した占部氏   氏貞岳山開城 2)許斐城奪回
  大友勢再び襲来
占部氏年表   尚持の死
占部氏系図総覧   飯盛合戦
占部氏家系伝(原本版)   島津軍北上
山田騒動
(氏貞相続時のお家騒動)
  太閤殿下下向