福岡 藩主 |
黒田新続家譜に見える占部氏と藩主相続等 | 福岡藩分限帳に見える占部氏 | |
氏名 | 石高その他 | ||
長政 | 慶長5年(1600年)、十二月に長政博多に到着 | ||
忠之 | 元和9年(1623年)、父の死去により家督を継いで藩主となる | ||
寛永9年(1632年)、家臣の栗山利章(栗山大膳)と対立 黒田騒動 | |||
寛永14年(1637年)、島原の乱 | |||
光之 | 承応3年(1654年)、父の死去により家督を継ぐ | ||
寛文(1661−1673)分限帳 | 占部忠右衛門寿好 | 200石 御傍陸士 |
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寛文7年(1667年)光之40歳、 6月近習の士占部忠衛門の記述有 黒田新続家譜巻之三 | |||
明治初年分限帳(光之時代の家臣) | 占部和七郎 | 600石5斗9合 大組 荒戸4番丁 |
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綱之 | 寛文9年(1669年)叙任 萬千代従四位下に叙し筑前守に任ぜられる。綱之と号す | ||
延宝5年(1677年)江戸から福岡に突然呼び出され廃嫡 | |||
綱政 | 寛文3年(1663年)東蓮寺藩黒田之勝養子 | ||
延宝5年(1677年)正月、綱之病気の為と称し宮内少輔初長寛総領となる。綱政を名乗る | |||
父の側近だった者達をすべて排除するなど、父光之と次第に対立を深める | |||
貞享3年(1686年)徳川家綱7回忌法事。福岡源光院における法事占部忠右衛門(用聞)事を掌る 黒田新続家譜巻之七 | |||
貞享4年(1687年)城内火薬庫移設 用聞占部忠右衛門記載あり 上記黒田新続家譜巻之七 | |||
元禄(1688−1704)分限帳 | 占部傳右衛門 | 300石 | |
元禄元年(1688年)光之61歳・綱政30歳 立花勘左衛門家人占部諸左衛門の記述あり 黒田新続家譜巻之七 | |||
元禄元年(1688年)父光之が隠居し、家督を継ぐ | |||
元禄5年(1692年)光之65歳・綱政34歳 立花勘左衛門家人占部諸左衛門の記述あり 黒田新続家譜巻之八 | |||
元禄14年(1701年)光之74歳・綱政43歳 小倉役人と境について対談す。当方上座郡代他と占部傳右衛門出会とある 黒田新続家譜巻之十一 | |||
元禄14年(1701年)占部傳右衛門宛文書あり 武田春庵日記(黒田新続家譜第7巻下) | |||
元禄16年(1703年)同上 | |||
元禄17年(1704年)同上 | |||
宝永1年(1704年)同上 | |||
宝永2年(1705年)同上 | |||
宝永(1704−1711)分限帳 | 占部忠右衛門 | 550石 荒戸2番町 表口21間 |
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同上 | 占部宅右衛門 | 100石 無屋舗衆中 |
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宝永6年(1709年)、占部忠右衛門署名の文書あり 武田春庵日記(黒田新続家譜第7巻下) | |||
明治初年分限帳(綱政時代の家臣) | 占部仂(ナカバ) | 150石馬廻り組 | |
同上 | 占部平文(?)萍 (文はサンズイ付) |
御切米20石6人扶持 城代組本道医 |
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宣政 | 正徳元年(1711年)の父の死去により後を継ぐ | ||
享保(1716−1736)分限帳 | 占部傳大夫 | 550石 | |
同上 | 占部宅右衛門 | 100石 | |
継高 | 直方藩主・黒田長清の子。享保4年(1719年)宣政隠居、家督相続 | ||
享保10年(1725年)宣政41歳・継高23歳、小笠原右近将監病気につき医師岡拍庵に占部市右衛門(使番)を付けて送る 黒田新続家譜巻之二十一 | |||
元文元年(1736年)宣政52歳・継高34歳 長清17回忌、斉藤忠兵衛(中老)とともに占部市右衛門(用聞)事を預かる 黒田新続家譜巻之二十五 | |||
元文2年(1737年)宣政53歳・継高35歳 占部市右衛門、おまさ(おまつ)江戸行に随行する 黒田新続家譜巻之二十五 | |||
元文4年(1739年)宣政55歳・継高37歳、光之三十三回忌、矢野市太夫(中老)とともに占部市右衛門(用聞)事を司どる 黒田新続家譜巻之二十五 | |||
延享(1744−1748)分限帳 | 占部玄真(後文山) | 6人2石(元3人13石) 御納戸組4人17石とも 西職人町より追廻新屋敷へ 円性院殿付 |
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同上 | 梅野源三郎 | 占部八郎左衛門長や 荒戸二番町の記載有 |
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宝暦12年(1762年)、継高60歳・重政26歳 重政逝去 | |||
同上、重政法事の時、忌明の後、答謝の使者として、小倉に占部忠右衛門(大組)遣されると記述あり 黒田新続家譜巻之三十 | |||
宝暦13年(1763年)、継高61歳、松平準之助養子の招請に浦上彦兵衛同伴占部忠右衛門(大組)備前岡山へ遣わすとの記述ある 黒田新続家譜巻之三十 | |||
安永(1772−1781)分限帳 | 占部忠右衛門 | 600石5斗9合 | |
同上 | 占部織衛 | 130石 | |
治之 | 安永8年(1779年)、治之28歳、黒田美作家臣として占部金兵衛の名あり 黒田新続家譜巻之三十五 | ||
長高 | 天明8年(1788年)、長高12歳、領地の御判物を拝戴し給う時、本国へ届ける使者中に占部織江の名あり 黒田新続家譜巻之四十 | ||
斉高 | 寛政4年(1792年)、斉高16歳、島原普賢岳噴火の時占部市大夫、家老中に派遣される 黒田新続家譜巻之四十一 | ||
寛政5年(1793年)、斉高 17歳、内臓頭へ博多織帯など届ける使者として占部忠大夫(使番)の名あり 黒田新続家譜巻之四十一 | |||
斉清 | 寛政10年(1798年)、長順4歳、武芸所が創設された。後文化二年の話として和術師範として占部忠太夫の名あり 黒田新続家譜巻之四十三 | ||
文化(1804−1818)分限帳 | 占部忠太夫 | 600石5升5合 大組 | |
同上 | 占部織江 | 130石→150石 馬廻組 御馬屋後 |
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同上 | 占部文山(三折) | 20石6人扶持 医師本業 六本松 |
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文化5年(1808年)、長順14歳、英船出帆の時、家老使いとして奉行所に遣わされる。占部忠太夫(使番)の記載あり 黒田新続家譜巻之四十六 | |||
文化11年(1814年)、長清20歳。朝鮮漁船漂着の折り、負傷者長崎護送時付添として医師占部文山とあり 黒田新続家譜巻之四十八 | |||
斉溥 (長溥) |
文政5年(1822年)、第10代藩主・黒田斉清の養嗣子となった 天保5年(1834年)11月6日、養父斉清の隠居により、家督を相続した |
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天保(1830−1844)分限帳 | 占部忠左衛門 | 600石5斗9合 大組 | |
同上 | 占部織江→市平 | 150石 馬廻組 | |
同上 | 占部亮叟 | 20石6人扶持 医師本業 | |
嘉永元年(1848年)11月、長知が先代藩主・長溥の娘・理玖の婿嗣子となる | |||
安政(1854−1860)分限帳 | 占部忠右衛門 | 600石大組 紋丸の内桔梗 |
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同上 | 占部織衛 | 150石 馬廻組 御馬屋後 | |
同上 | 占部文山 | 6人20石 医師 追廻し | |
慶應(1865−1868)分限帳(黒田三藩分限帳より追記) | 占部忠左衛門 | 600石5斗9合 荒戸4番町 | |
占部市平 | 150石 安川務同居 | ||
占部文山 | 20石6人扶持 医師 六本松 | ||
占部養沢 | 2人扶持 西方寺前町 | ||
占部五右衛門 | 一人扶持 2代 外療 志摩郡野北 |
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明治初年分限帳(斉溥時代の家臣) | 占部三折 | 2人扶持 城代組本道医 西方寺前町 |
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長知 | 明治2年(1869年)2月、長溥の隠居により跡を継いで藩主となり、同年6月の版籍奉還により知藩事となる | 占部文哉 | 三人扶持 医師 博多西方寺前町 |
明治初年分限帳(長知時代の家臣) | 占部寿 | 百石 荒戸4番町 | |
有栖川宮熾仁親王 | 明治4年(1871年)福岡藩知事 | ||
≪福岡居住宗像旧臣人名≫ 『増福院祭田記』に、宗像氏男婦人の為に祭田を買い、山田の増福院に寄付した人々の名簿が掲載されている。 延宝8年(1680年)8月18日というが、その中から占部氏吉田氏に関する人々を揚げておく。
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