許斐氏任の謀反許斐三河守氏任は許斐氏の嫡流である。宗像の庶流、深田美作守氏俊の親族であらせられる。天文より弘治に至って、宗像の家の執権の衆中にあって最も威勢があった。弘治3年十月の事であったが、氏任は一家の者達、即ち許斐左馬太夫氏備、同安芸守氏鏡、同宮内少輔氏清、同兵部少輔氏則、同与八氏種、同五郎氏信等、そのほか一族彼是あまた集めて言うには、「氏貞はいまだに若年(当年13歳)にて東西をわきまえ給はず。この時節に謀反を起こし氏貞を殺し奉らん事いと安し。手にたつものとては許斐城の占部一人なり。彼を討ちて立花に一味し、宗像領を知行して一門栄華にほこり、面々にも過分の地を領させ申すべし。いずれも一味同意し給わば、近日に思ひ立たん。」>次へ |
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