大宮司氏国と白山城
現在の宗像大社の南側に片脇城址がある。片脇城は延喜14年(914年)に清氏親王が京より下向して宗像氏を継ぎここに住んだという。館は親王の下向にあたり、新築されたのだろう。以来、代々の社務はここに住んだという。清氏より四世氏能の時、始めて大宮司を称することを許されたが、永延元年(987年)には家門が社家領と武家領の二家に分かれて衰微した。その後清氏より十一世の孫氏国は寿永年間(1182〜1184)平家没落の混乱に乗じて宗像一郡と鞍手半郡を押領し、神職でありながら白山城を築き武将化したという。(「鞍手町誌」より)
以降白山城が歴代大宮司の居城となった。
白山城を築いた氏国は、すなわち宗像占部の始祖とされる臼井常有(=占部六郎兼安)を助け、占部姓を与えた人物である。常有は、承久3年(1221年)承久の乱で兄二人を亡くし、
幕府の目を避けて大宮司宗像氏国を頼った。氏国は常有を愛育し自分の古参の家来だった占部氏の戸籍があいていたのを継がせたのである。大宮司でありながら、城を築いて武に力を注いだ氏国が坂東武者の子常有を重陽したのもうなづける話である。
氏貞(鍋寿丸)白山入城
天文20年(1551年)の秋、陶隆房(晴賢)の謀反により、大内義隆が自害し、宗像家の当主だった氏男が殉死した。時をおかず、前当主正氏が山口出向中に生まれた側室の子鍋寿丸が白山城へ強行入部する。鍋寿丸の母は陶隆房の姪であり、陶隆房は寺内治部丞をはじめとする自らの配下で幼少の鍋寿丸の周りを固めさせ、宗像の政治の中心だった白山城に送り込んだのである。天文21年(1552年)陶隆房は大友義鎮の腹違いの弟大友晴英(大内義長)を山口に迎え、大内家を継がせた。
一方、宗像在住の当主候補を次々と抹殺し、宗像家は今や陶隆房の思うなりである。圧倒的な陶隆房の力の前に宗像家中の者たちはなすすべもない。
天文23年(1554年)大内義隆の姉婿、石見国三本松城主吉見正頼が陶晴賢に対し兵を挙げた。吉見正頼の妻は大内義隆の姉であり、大内義隆の厚い信任を受けていた。当初陶に力を貸していた毛利元就がこれを機に一転して反陶晴賢(隆房)となる。この時、「宗像鍋寿丸は、吉田・占部・石松を大将として、三本松城に三百騎送った」との記録がある。この3家は宗像家旧臣達で、近々に起こったお家騒動に関して、陶側のやり方を面白く思っていなかったに相違ない。邪魔者を追い払う意味だったのか、本心を確かめようとしたのか。この出兵は旧臣達にとって明らかに気の進まない命令であった。この頃から水面下で毛利元就とつながるようになったのではないかと思われる。
やがて、弘治元年(1555年)、毛利元就は陶晴賢を厳島で討ち、後に大内義長を自刃に追い込んだ。この時大友義鎮は腹違いの弟義長を見殺しにした。毛利元就に対してそれを許す代わりに、北部九州の覇権を手にする予定であった。しかし、旧大内家寄りの九州の諸将達は大友氏の支配を嫌い、勢力を増した毛利氏を頼ろうとする。弘治3年(1557年)、大友義鎮は筑前の古処山城の秋月文種に続き、五ヶ山城の筑紫惟門、高祖城の原田隆種ら毛利内通組を次々と攻め、ついに豊前・筑前・肥前3国を平定。永禄2年(1559年)6月には筑前国守護の地位を手にした。
大友勢との攻防
毛利氏の台頭に救われた宗像家臣達だったが、大内氏を後ろ盾としたように、毛利氏を頼りにしたことで、反大友の立場があらわとなった。永禄2年(1559年)6月、筑前守護の位置を手に入れた大友義鎮は、同9月、立花但馬守鑑戴、奴留湯融泉、麻生鎮氏に豊後勢を加えた大友軍を宗像へ向かわせる。この時宗像の兵は毛利氏を加勢する為に出張中で領内は手薄だった為、許斐城の占部尚安は城を捨てざるを得なかった。大友勢は続いて白山城を囲んだ。宗像氏貞は家臣達とともに城を棄てて大島に渡った。又大友軍は更に兵を進め、水巻の山鹿城にまで進攻。城主麻生家助も城を開けて逃れた。
翌永禄3年(1560年)3月、宗像勢が許斐城を奪回。大友勢は一旦退却し、占部尚安は許斐城に帰城したが、4月に再び軍勢を集めて襲来した大友勢を迎え撃つ。粘り強い抵抗に手を焼いた大友勢は、一時退却。8月になって軍勢を増強し、大挙して押し寄せる。(宗像記へ )
白山城と蔦が岳城
この永禄3年8月の襲来時に、氏貞が蔦が岳城にいたという記録がある。これに対し『宗像記追考』には修正が加えられている。それによれば、「氏貞が宗像へ入部したときには白山の城に入った。これは先の大宮司正氏の隠居所であったからである。その後、蔦ヶ岳の城に移るはずであったが、嫡子か庶子かのことで争議となり時がたってしまう。また、蔦ヶ岳の城を修復してから移るとのことであったが、連年干ばつ続きでそれどころではない。結局永禄5年まで12年間の間は白山に居ることとなった。従って、永禄3年の大合戦の時にはまだ白山に居り、蔦ヶ岳の城には番人を置いていた。豊後勢が来襲したとき家臣達が駆けつけ、本来ならば蔦が岳に籠るところだったが、昨日の味方が今日は敵になる時世であったので、蔦ヶ岳には人を送ったのみで、自身は白山に籠城した。」
この時氏貞はまだ15歳位であり、家臣達との信頼関係もまだ確かとはいえなかったのだろう。永禄年間の大合戦は宗像家の一大危機であったが、この大艱難が氏貞を中心とする家中・領民の結束を固めさせた。これを機に、幼く護られながら過ごした白山城に別れを告げた氏貞は、蔦が岳城を中心に歴史に残る武将・大宮司として成長を遂げる。、