『占部社縁起』(額の記載内容)
占部の社は平の姓 占部右馬之助尚持及びその父尚安の霊を祀る。
占部右馬之助尚持 大永7年(1527)許斐城に生る。 十四才にて父尚安と共に立花城を攻む。三十四才迄に戦場に赴くこと二十八度。勇敢知計枚挙いとまなし。永禄3年(1560)豊後勢を防戦、豊後兵は敗北。帰路伏兵ありて左足を斬らる。その敵を斬り殺せしが尚持深手の為その黄昏ついに没す。年三十四才(1560)八並村に葬る。又吉原の山中に祀り今宮殿と崇敬す。
占部越前守尚安 尚持の父なり。尚持と共に芸州に到り毛利元就とはかり戦功大なり。永禄2年、大友幕下の軍士ら俄かに襲来し、勇猛をふるえども無勢なれば勝を得ず。城を避れて大島に至る。永禄3年勝島に要塞を普請し神湊に城を構える。号して草崎城という。同年4月許斐城に帰城す。同年8月亡子尚持追悼のため平井邑に一寺を建つ。建興院という。田島医王院玉岩和尚をもって開山とす。同年10月宗像氏貞、政事及び宗像大神の社殿建立のこと談ぜり。同9年正月家領を嫡孫占部八郎貞保に譲る。同年9月神湊に隣船寺を開山。元亀3年2月没す(1572)年72才。乙尾の山に葬る。
占部八郎貞保 永禄3年、十四才にして赤馬庄長尾原に敵を敗りて勇名をはす。これより戦功たつること数多なり 天正6年許斐城を去りて上八村に住す。今井原の邸の内貴船社の傍に今宮社を移し、祖父尚安、父尚持を祀る。貴船社の際に小流あり。亀の甲と云い東より西に流れ、末は水洗川と云いその川下江川、それより海に入る。或る日当社の内に承福寺門前十王堂より地蔵一体を安置す。これより不吉のこと多し。或る時白鷺二羽当社の森に羽を休む。古伝に舎屋の林に白鷺二羽入るは不凶の兆なりとあり。当社を又貴船の社より丑寅の方に祠官入江形部太夫社壇を西に向きて遷す。四時祭奠し後、不窮に尊重して神威日々に新なり。村人ら疾病あればこれに詣で霊験あらたかなり。更に徳風四方に達し、世を挙げて「占部の社」也と称号するなり。
平成八年十月
「占部社縁起」より抜粋
占部元子書