河津氏
大内氏が河津氏に西郷を与えたのは15世紀後半という。以来、亀山城を代々の居城とした。河津氏の歴史は古い。元をたどれば、伊豆の伊東氏であったが、河津荘を領して河津を名乗った。永仁元年(1293年)鎌倉幕府の執権北条貞時から粕屋郡の荘園七百町を与えられ、鎮西探題北条兼時に従って筑前に移住してきたという。蒙古軍襲を機として、鎌倉幕府は鎮西探題を立てて北条氏の一族を送り込み、大友氏・少弐氏を指揮下においていた。統率強化の名の下に守護職の多くを北条一族が固めていたのである。筑前に下った河津貞重(一部家系図には重貞)は小仲庄(現篠栗町尾仲)に居を定め館をかまえ、高鳥居城を築城した。
「宗像記追考」には大内家の家臣となった時に西郷に移住し、大森神社の社務職についたとあるが、大森神社の由緒によれば、筑前下向からほどない嘉元二年(1304年)には河津駿河守重房が社職を務めている。大森神社は昔は飯盛山の麓の小盛にあったという。飯盛社・小盛社・西塔田若宮社の御祭神を祀り、宗像神社75社の一つであった。
下向してから2代目の河津駿河守藤原重房は、本国産神、伊豆権現・箱根権現・三島明神の三社の御祭神を合祀した。神社名も初めは飯盛小盛神社といったが後に大森神社に変わったという。飯盛山の城もこの頃築城したのであろうか。河津伝記には乾元元年(1302年)頃、関東からの下向組だった宇都宮貞朝が高鳥居城に入城したために、宗像郡西郷庄に移り、飯盛山の城を守護することとなったと書かれている。
時は下り、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府滅亡の時を迎えると、北条氏に役を奪われた少弐貞経・大友貞宗が中心となって、探題北条英時を攻め滅ぼし、時代は南北朝時代に入っていく。北条氏を失って、立つ位置を失った重房の子種倍はやむなく小弐氏に下り、飯盛城から冠城に移されていた。種倍は、九州に下向してきた足利尊氏に味方して戦功をたて、家の存続をはかる。種倍は戦功の見返りとして旧城への復帰を願ったが、かなわなかった。倍種は剃髪して浄閑と号したが、暦応元年(1338年)、謀反の疑いがあった秋月次郎を館に招いて捕え、将軍家に献上したことで、許斐の城主に補されたという。
応安4年(1371年)、足利義満は今川了俊を九州探題職として下向させた。又、大内義弘に命じ、九州の巻き返しを図る。河津氏は種倍の次の種家の代に衰微したが、大内義弘に従い戦功をたてて、長門国深川庄を賜り、これを以て大内氏の幕下に属したという。その後河津弘業・興光・隆業三代に亘って武功多く、大いに栄えた。又大森宮も、ほとんど廃社になりそうになっていたところを弘業の代に再び建て直し、宗像大宮司に請て祠官を立て、旧例の如く祭礼を復活させた。大永7年(1527年)新四郎長祐(隆業)は、父興光の家督を継ぎ、以後河津氏は西郷亀山城を居城とする。
<大森神社(宮)> |
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現在、上西郷なまずの郷近くに大森神社(宮)がある。この社は再建されたものでまだ新しい。山城国舟岡山の合戦で深手を負った河津民部少輔藤原興光を助けたという大鯰を祀っている。船岡山の合戦といえば、占部豊安も参戦した戦である。豊安は永正5年(1508年)大内義興とともに上洛、永正8年船岡山で戦功をたてている。しかし、この激戦で、豊安は弟占部孫三郎盛祐、家臣弘中五郎等多くを失った。
大森宮のいたるところに伊東姓を見かける。正蓮寺の前和尚様は河津氏を伊東河津と呼んでいた。それからいけば、さしずめ臼井占部となるところだが、当方は素性を隠すために占部を名乗ったために、臼井の名は消えてしまった。 |
河津氏と宗像氏の関係
鎌倉幕府から粕屋郡荘園七百町を与えられ、筑前に移住してきた当初、高鳥居城を築城するなどして威を振るっていた河津氏だが、北条氏が滅んだ後は、宗像氏とも縁戚関係を持つなどして一族の保全をはかった。「河津伝記」によれは大宮司宗像氏俊と河津種倍が婚家のつながりを持って以来、両家は代々良好な関係だったという。氏俊、河津種倍の両名は共に、足利尊氏が九州に下ってきた際尊氏を助けた功により恩賞を得た。
宗像家歴代は領地の拡大を願っていたが、中央政権からの派遣組の支配下にあって、思うようにはならなかった。大内氏に属してからも、結局西郷は直轄領となり、それを手にすることはできなかった。一方、宗像への西からの侵入は、唐津街道を通り、内殿・西郷を抜けることも多く、西郷・村山田周辺が戦場となることもしばしばであった。特に、元寇を機に博多周辺に勢力を伸ばした豊前大友氏の勢力に対抗するにあたっては、大内家家臣達が西郷を固めていてくれたことは、宗像家に大きな利をもたらした。
大内時代末期の当主大内義隆は、宗像家家臣の占部豊安に許斐城の再建を許可した。もともと、飯盛山城・許斐城は河津氏の城であったが、この時許斐城はしばらくの間使われていなかったという。許可をもらうにあたり、占部豊安は吉川庄三百町を差し出した。豊安の嫡子尚安の時代になって、大内義隆は、「占部と河津は縁を結んで助け合い忠功を立てよ」との命を下し、河津新四郎隆業は占部尚安の娘を、嫡子隆家の嫁に迎えた。
大内義隆自害の後、河津新四郎隆業は出家し、弟隆光は自害し、河津の家は隆家が継いだ。河津氏は筑前目代や鞍手郡代などを務めたように、元々筑前を管理する側であり、宗像氏とは対等、あるいはそれ以上の地位にいたこともあった。大内義隆が亡くなり、筑前も混乱する中、隆家始め西郷衆は宗像家と同盟的関係を保ち、相互に依存を深めたが、大内家が滅びると後ろ盾を失って次第に勢力を弱めた。一方、大内氏滅亡を機に、宗像家は赤間庄、野坂庄など宗像の中に点在していた旧大内領を統合し、自立した領主の地位を目指す。血生臭いお家騒動の末に当主となった氏貞も成長するにつれ、その才覚を表してきた。
河津隆家は勢いを増す宗像家によって先代の領地も取り上げられたとの記載もある。しかし隆家はそれに耐えた。そして、舅であり、毛利家といち早く関係を深めた占部尚安の一族と行動を共にしていた。永禄年間、西の大友勢の度々の襲来の時にも、尚安や、義兄弟達と許斐城に籠り、戦った記録がある。宗像家家臣の座にも甘んじ、家の安泰を願った西郷衆だったが、更なる悲運が待ち受けていた。
永禄12年、毛利氏が本格的に筑前に兵を送り込んだ。北部九州の覇権を狙いながらも、山陰の尼子氏との覇権争いもあり、なかなか集中しきれない毛利元就であったが、この時には大友勢力をあと一息というところまで追いつめた。ところが、大友宗麟の本国への奇襲を受けた毛利軍は撤退を余儀なくされ、取り残された九州諸将は大友氏と和睦を結ぶしかなかった。宗像氏貞も大友氏と和睦を結んだが、和睦といっても突きつけられた条件を呑むしかない、ほとんど降伏と同じであった。これにより、河津隆家をはじめとする西郷衆は西郷の地から取り除かれ、西郷は大友方の支配下に置かれ、立花城主立花道雪が管理することとなった。
河津隆家の最後