笠木城
「福岡県の城」(広崎 篤夫氏著)によれば、笠木城は宗像郡神領の地である合屋郷(飯塚市幸袋)の防衛を目的として築城され、宗像家の重臣占部越前守宗安が在城していたという。築城を天文20年(1551年)としているが、占部家の家系図によれば、宗安は貞和6年(1350年)に肥前晴気で戦死しているので、築城は1350年より以前と思われる。ちなみに肥前の晴気にも古来からの宗像神領があり、占部家は宗像家の領地の防衛役を勤めていたことは間違いなさそうである。
宗安より3代前の維安の時、占部氏は既に鞍手郡若宮荘で8百町を領有している。一説に維安は文武に秀でた英傑で誰もが一目置く人物であったという。はっきりとした年代はわからないが笠木城がどの時点で築城されたのかは定かでない。笠木城の名が系図に出てくるのは宗安だけである。
追記)H23.9
宗像市深田の占部氏所蔵の系図によれば、宗安の父重安(壱岐守・越前守)は、初め和田茂時と名乗ったが 嘉元3年(1305年)九品下、後に筑前国鞍手郡笠木城主となったという。九品下というのは何であろうか。このような官位は日本にはなかったはずだが、当時流行でもしていたのだろうか。始め和田姓だったのは、もともと嫡男でなく他家に養子にでも出ていたのだろう。嫡子が戦死したか何かで後に占部姓に戻ったものと考えられる。この記録が正しいとすれば1300年代初め、笠木城主となったことになる。これは宗安の年代から考えても妥当である。
占部宗安
建武2年(1335年)、足利尊氏が建武政権に背き 足利軍は箱根で新田義貞を破ったが京都で破れ、翌年3月には海路で西下し九州に逃れてきた。西下する一行を少弐頼尚が長門の赤間関(下関市)で出迎え宗像社に案内した。宗像を出た尊氏は多々良濱にいたり、菊池武敏軍と激突する。大宮司氏範は尊氏に味方して参戦し、その功により所領も倍増した。領地を守る為、宗像氏はこの頃からひたすら武家のごとくなったという。
占部宗安は、嫡子安治と共にこの多々良濱の合戦で功をたて、翌年の12月に筑前吉川荘3百町を加恩された。先祖よりの若宮荘8百町と合わせて千百町を領有したという。まもなく北部九州も南北朝の混乱に巻き込まれ、幕府方・宮方に分れ、後に足利尊氏の兄弟の争いまで絡んで戦乱の世が続く。占部家の系図にも戦死の記録が続くが、遠征がほとんどで笠木山城の名は出てこない。
時は下って文亀3年(1503年)、占部尚安が鞍手郡古賀城に生まれた。古賀城は占部家代々の家領吉川荘の小さな山の上にあって、尚安の父豊安が建てたものではないかといわれている。脇田温泉の中に位置し、誰か身体でも弱かったのだろうか。湯治には最高の場所である。一族の根拠地が相変わらず鞍手にあったことは間違いないが、この時まで笠木城が居城として残っていたかどうかも知る手がかりはない。
笠木城歴代
古賀城で生まれた尚安の父豊安が宗像郡八並の許斐岳に城を築いたのを機に、宗像郡内に根拠地が移っていく。この享禄2年(1529年)より以降の笠木城の残存記録は以下の通りである。(北九州戦国史他より)
◎永禄11年(1568年)11月毛利元就、麻生隆実をして笠木城を普請、在番させる。
これは永禄10年に秋月・原田・宗像等の諸将が大友氏に対し一斉蜂起した際、秋月救援と翌年の立花城攻略に向けて、元就が嘉穂郡の馬見城とともに再整備させたものである。
◎永禄12年(1569年)10月、大友方の千手尾張守笠木城などに放火する。
立花城を襲った毛利軍は一旦は城を大友方より奪ったが、留守の本国を大友軍につかれたため夜陰にまぎれて本国に帰還。この突然の撤退により、九州の毛利方諸将は見捨てられたかたちとなった。
◎元亀元年(1570年)7月、大友宗麟、入田義実に笠木城番を命ずる。
◎天正3年(1575年)秋月種実が草場城・笠木城を攻略する[澤田憲孝氏の犬鳴川歴史年表]
以降、乗手石見守、柏井九郎左衛門、天正7年以降は恵利出雲守が城代となる
◎天正15年(1587年)、秀吉九州平定の折秋月種実の諸城とともに廃城となる。
遠遊夢想
江戸末期、国内外ともに不穏な時期、博多湾の海際に城があった福岡藩は外国船から襲われる脅威を感じ、有事の際の主君の逃げ城として犬鳴に別館を建てたという。福岡藩家老加藤司書が建てたという犬鳴御別館跡が犬鳴ダムの近くに残る。(みやわかふれあいページより)
この話を読んで、笠置の城は元の襲来に備え、万が一、元が上陸侵入してきた時の逃げ城として建てられたのではないかと勝手な想像をふくらませた。古来より宗像家の有事の場合の避難場所は大島であった。しかし、大島は海から来る敵からの避難場所としては都合が悪い。若宮荘は川を下って芦屋津に出ることもでき、又豊前方面に逃れるにも都合が良い。千石峡を北側に控えた城は明らかに北方からの侵入者を意識してつくられている。
壮大な規模の城は、戦国時代の取ったり取られたり、攻めたり守ったりの攻防激しい最中に造られたにしては念入すぎて急場の対応には便が悪そうだ。事実、宗像の持城となっている間、ここが戦場となった記録がないことからして、常用していたのではないだろう。山の北側の千石峡に大屋敷、小屋敷、小姓町などの城下町の跡があり、宗像家の持城時代にはこのあたりに住んでいたと思われ、後に秋月藩に属してからは、南の二瀬町側に住んだという。
はっきりとした年代はわからないが初代占部兼安から数えて4代目にあたる維安の時は、ちょうど元寇の時期と一致する。兼安の兄弟だった臼井常則の家系図から判断しても、ほぼ間違いないと思われる。元寇の時代は体制強化を理由に北条氏の支配が強まった時代で、宗像社領の荘園にまで厳しい年貢が課せられていた。そんな時に維安が若宮荘800町を領有したことも元寇と何か関わりあるのではないかと思う。笠木山城は7代宗安が居城としたことは記録に残るが、それ以前に有事の際に備えて建てられたものではなかったのか...あくまで勝手な想像である