春日大社と春日神社
春日神社という名を聞けば、まず頭に浮かぶのは世界遺産となっている奈良の春日大社だ。奈良の春日大社は、奈良に都ができた(710年)頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)をお迎えしたのが始まりという。天児屋根命(あめのこやねのみこと)をお祀りしたのは神護景雲2年(768年)になってからで、大阪府東大阪市にある牧岡神社(ひらおかじんじゃ)より后神ともいわれる比売御神(ひめみかみ)とともに勧請された。
全国の春日神社はこの春日大社より四所大神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比売御神(ひめみかみ)
を勧請して創建されたものがほとんどである。九州においても大分市の春日神社にしてしかり、又鹿児島市の春日神社においても又しかりである。
一方、この春日市の春日神社だけはその成り立ちが異なる。境内の由緒にあるように、天智天皇が皇太子としてこの国におわします時、この地に天児屋根命を祀る為の神籬(ひもろぎ)を建てたのが最初だという。天智天皇の皇太子時代と言えば、中大兄皇子を名乗っていたころのことで、668年に即位する以前である。春日大社が出来たのが710年であるからそれより古いことになる。
太古には現在の神社のような社殿はなかった。「そのため、古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく、祭の時はその時々に神を招いてとり行った。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣(たまがき)をめぐらして注連縄(しめなわ)で囲うことで神聖を保った。古くはその場所を神籬(ひもろぎ)と呼んだ。」(wikipediaより)
天智天皇(中大兄皇子)と中臣鎌足
『春日神社御記録(春日市史)』によると、天智天皇が筑前国朝倉宮(福岡県朝倉市とされる)に下られ、長津の宮(=磐瀬行宮(いわせのかりみや))に居られる時に祀られた神籬が始まりという。
初め天児屋根命一柱を祀っていた。天智天皇がまだ皇子として中大兄皇子とも葛城の皇子とも云われた頃、天児屋根命から二十世の孫中臣鎌足の力添えによってクーデターを起こし、当時大臣として勢力を振るっていた蘇我入鹿を暗殺。大化の改新を押し進めるという大業を果たした。
その鎌足の祖神である天児屋根命を那珂郡(日本書紀に儺県とあり)の清地を神籬(ひもろぎ)とし、祀ったのだ。
この頃、朝鮮半島の緊迫した国家興亡の波が倭国にも押し寄せて来ていた。660年、百済が新羅・唐の連合軍に滅ぼされる。百済は友好国だった倭国に滞在していた百済王の太子を擁立させ百済再興を計った。救援を求める百済に中大兄皇子はこれを承諾し、661年九州へ出兵したが、母斉明天皇は朝倉宮にて急死した。皇子はこの時まだ即位せず、百済の救援に軍を送るが、663年朝鮮半島の白村江で倭国水軍は大敗北した。正式に即位したのは
667年になって近江大津宮に遷都してからのことである。
この大艱難の時、腹心の中臣鎌足は傍近くにはいなかったと思われる。669年には亡くなっているからだ。春日に神籬を建てたのはこの頃であったはずである。自らの武運長久を願ってか、或いは中臣鎌足の快気を願ってのことだったろうか。
春日神社の歴史
下って、神護景雲二年(768年)、従四位上藤原田麿(藤原式家)が太宰少弐となって筑前国に下り大宰府に居たとき、那珂郡に藤原家の祖である天児屋根命の神籬があると聞いて親しく参拝し、天智天皇が建てられた神籬として大切にした。
その頃、故郷の大和の国春日の里でも、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神四柱を合わせ祀り、春日四所大明神と崇め奉っていた。そこで、那珂郡の天智天皇御遺愛の神籬を迎えて神社を創立し、三神を大和より勧請して春日大明神として祀ったという。
時の太宰帥は大納言正三位弓削朝臣清人と言ったが、田麿のとりなしによって地元の産土神(うぶすながみ)として祀ることとなり、それより宮所がある里の名も春日と言うようになったそうである。
最初にあった御宮所は現在の神社の裏の春日山の内、北一丁ばかりの所で、久しくその跡もあったようである。 元々の神籬も天智天皇の御遺愛ということで、里人が220年あまりの歳月怠りなく祀り大切に管理していたという。
春日神社となってからは、大宰府の管轄となったために、殿宇は巨大にして社地区域も広く社田もあったので、社務を置き、神職神楽男乙女も置いて、神事はもとより日々の宮仕も厳重であったという。
武家の世となってからも守護地頭の保護を受けていたようで、周防国山口領主大内義興が大宰府大弐に就任し、九州探題を兼ねた時には、名のある社は修理を加えられて栄えた。
永正末期より天文年間に至って、天下大いに乱れ豊後の大友と大内氏との戦いも絶え間なく、大内氏没落の後には本社の修理祭礼ともに執り行われることもなくなった。西には原田氏、南に筑紫氏がおり、大友勢として立花山、岩屋城に城番が配置され、宗像・原田の兵と度々戦を繰り返していた。天正14年7月に薩摩より島津の兵が押し寄せて岩屋城を落した。、勝ち誇った島津勢があたりに火を放った為、本社春日神社の殿宇はじめ末社まで残らず社司の家まで焼失、古来の神宝、旧記他すべて灰と化した。
現在の社は黒田藩になってからのものである。黒田美作一成は、那珂郡のこの春日村を賜った時、この御社に足繁く詣で、神殿を補修し、祭礼も昔にならって行ったという。又、後の三代目藩主黒田光之公はもともと早良郡の橋本村で生まれたが父忠之の眼をのがれて、一成が春日村に匿ったという。不遇の身であった幼君だが、その後父の心も溶け、東国に赴いて家光公に拝謁し、光の一字を賜るなど、様々な幸運に恵まれ、数十年の穏やかな治世の後、80年の長寿を全うした。これも神徳によるものと後々まで信仰厚く保護したという。
大城山(四王寺)
「筑前国続風土記拾遺巻之(十一)」には春日神社はむかし三笠郡大城山の上に鎮座していたが、後に春日村に遷したという話がある。神社というよりは神籬が山頂にあったと思った方がよいだろうか。
又、武神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)・齋主命(いわいぬしのみこと)=経津主命(ふつぬしのみこと)も、異国降伏の為に大城山に祀られていたらしい。
ここには年号が記されていないので、むかしとはいつなのかわからないのが残念だ。
663年、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済を再興するべく朝鮮半島に出征した倭国の水軍が白村江(朝鮮半島南西部、錦江とされている)で大敗したことは前に述べた。唐・新羅による報復と侵攻を怖れた皇太子中大兄皇子は翌年大宰府を今の地に移し、水城(みずき・土塁)を築き鬼門に当たる宝満山に八百万の神を祀った。
更にその翌年665年には大野城、基肄城(きいじょう・基山にある)を築いて北部九州の防備を固め、長門城を始め瀬戸内海沿岸に山城を築いた。これらは、百済人の手によって築かれた為に朝鮮式山城であったという。
太宰府市通古賀にある王城神社の縁起によれば、王城神社の始まりは、天智天皇4年(665年)都府楼が建てられたとき、それまで武甕槌命(たけみかづちのみこと)と相殿で四王寺山に祀られていた事代主命(ことしろぬしのみこと)を筑前国衛庄(現在の通古賀5丁目旧小字扇屋敷)に御移ししたことに由来し、又王城神社の名称は、大城山(四王寺山)の神として大城大明神として崇め奉られていた事によるという。(船賀法印「王城神社縁起」)
この王城神社の縁起からすると、天智天皇より以前に大城山には武甕槌命(たけみかづちのみこと)や事代主命(ことしろぬしのみこと)が祀られており、又筑前国続風土記の記述を合わせれば、経津主命(ふつぬしのみこと)や天児屋根命(あめのこやねのみこと)等が祀られていたと思われる。天児屋根命(あめのこやねのみこと)が少し早く山から春日の里に下りたが、大城山一帯に大野城を築城するにあたって、それぞれ分けて麓に遷しお祀りしたのだろうか。しかしそれにしては武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)という軍神のゆくえがわからない。
神武天皇東征時に事代主命他を四王寺山(大城山)に祀り、東夷平定を祈ったのが始まりとの言い伝えもあって、ここまで来ると、九州王朝説か大和王朝説かの迷路に入ってしまう。とにかく、天正年間の戦火によって確かな記録は灰となってしまったから、今それを確かめる術もない。
その後、侵略もないまま大野城の役割も失われていったが、宝亀5年(774年)に至って、新羅による宗教的呪詛に対抗し、眺望のきく清浄の地として大野城のあった場所に四王寺が建立された。ここに安置された四天王は四所明神の本地仏だと「筑前国続風土記拾遺巻之(十一)」には書かれている。今はその寺も既にない。