春日神社由緒
祭神: 天児屋根神・武雷神・経津主神・比淘蜷_
由緒:(宮田町誌を元に執筆)平安時代の初め延暦年中(782−806)、当地に流れて来た清原朝臣右兵衛佐重光が、故郷大和国三笠山の春日大明神を勧請したことに始まるという。
後に人皇61代朱雀院天慶2年(939)、正三位中納言藤原千歳丸が下向し宗像宮を司ったが、その時領内の神社祭事を怠ることなく施行した。殊に春日の社は
太祖神とて神田を寄付し年中祭事を熱心に行ったという。
下って、文明6年(1474年)宗像大宮司興氏が領内を巡回された時、吉田飛騨守と占部日向守、許斐安芸守がお供したが、この社にも立ち寄られて参拝し、太刀一腰を納められた。又、神職を占部兵庫に改められ、宗像氏の一字を授け、代々宮仕えさせたことが神主家の系図に書かれているという。
代々、宗像大宮司の崇敬に与ったが 戦国末期宗像氏貞の敗亡に伴って宗像家が断絶し、小早川隆景入封の際に、社領・神田ことごとく没収された。寛永18年(1641年)に倉久などの産神として再興されたという。
藤原千歳丸?
宗像家には清氏は、宇多天皇(867-931)の末子、或いは桓武天皇の子、太政大臣清廣の猶子となり源姓を賜わったとの話が伝わっている。源清氏が京より下向したのは延喜14年(914年)醍醐天皇の時であったとされている。
前記の由緒に「人皇61代朱雀院天慶2年(939)、正三位中納言藤原千歳丸が下向し宗像宮を司った」という記述があるのは、どうみてもこの大宮司下向のことと思われるのだが、年号も、名前も違っている。前者が広く一般に認識されているのに対し、後者の内容は筆者が初めて出会ったものである。
清氏とされる人物が下向したという話とともに、清氏という人物が実在したかどうかということに至るまで、すべてが疑わしいとされている一方、春日神社を尊重したのが本当であれば、藤原氏の流れの人物であったと考える方が妥当と言えるかもしれない。ただ、千歳丸は幼名でそれに正三位中納言などと付けていることからしても疑わしいと思わざるを得ない。下向の真偽はともかく、古族である宗像氏の系譜を朝廷に結び付けるために無理な工作が行われたことだけは推察できる。詳しくは宗像氏の項に譲ることとしよう。