占部尚安と古賀城
尚安は永正17年(1520年)6月、元服して豊治と名乗ったが、その頃はまだ古賀城で暮らしていた。その後享禄2年(1529年)に父が宗像の許斐山に城を再建したため、一家の拠点は宗像に移った。許斐山の麓の吉原に里城を建ててそこに住んだといわれる。許斐山城築城の二年前、大永7年(1527年)には、すでに嫡子春王丸(尚持)が吉原の里城で生まれているから、許斐山の再建よりも里城の方が先だったと思われる。尚持の嫡子宮若丸は、天文16年(1547年)に許斐山城で生まれている。
その後大宮司宗像正氏(黒川隆尚)が亡くなり、天文20年(1551年)、後を継いだ宗像氏男(黒川隆像)が大内義隆に従って殉死すると、宗像家の跡継ぎをめぐって騒動が起きる(山田騒動)。大内義隆を討った陶晴賢が送った鍋寿丸が後を継ぎ、陶が大友氏と組んだことで宗像家も陶・大友方にくだることとなった。
宗像家中でも反大友派で知られた占部尚安は、この間許斐山を出て古賀城に戻ったらしい。天文24年(1555年)の年、改元されて弘治となった10月に毛利元就が厳島で陶晴賢を討った。それに合わせるかのように、尚安は大友方に握られていた許斐山城を7月に取り返し、9月には古賀城から許斐山城に移っている。