古賀城/鞍手郡宮若市

文亀三年(1503年)9月11日、占部尚安は鞍手郡古賀城に生まれた。宗像家の最後を見届けた占部貞保の祖父である。宗像家は大宮司興氏の時代で、大内義興に従っていた。

古賀城は尚安の父豊安が築城したといわれ、現在の鞍手郡宮若市にある脇田温泉街の裏手にあった。

このあたりはのどかな田園風景の中にこんもり小さな小山が数多くある。正面の小山に古賀城があった

脇田温泉街は小さいが美しい街だ。脇田温泉のバス停の脇道を入って行く

 

山を切り出している為、崖になっている。強引にもココをよじ登った。

 

眼前に広がる吉川庄。小山の上にあった祠は黒水宮に合祀されたという。写真右端の森が黒水宮

 

頂上から反対側に回れば...なんだ苦労しなくとも道があった。

 

この坂を少年尚安も走り回っていたのかと想像を膨らませながら温泉街に降りてきた。登り口に祠がある。

黒水宮

   

吉川小学校の向かいにある小さな森が黒水宮

 

古賀城があった山上の天満宮はここに合祀された

占部尚安と古賀城

尚安は永正17年(1520年)6月、元服して豊治と名乗ったが、その頃はまだ古賀城で暮らしていた。その後享禄2年(1529年)に父が宗像の許斐山に城を再建したため、一家の拠点は宗像に移った。許斐山の麓の吉原に里城を建ててそこに住んだといわれる。許斐山城築城の二年前、大永7年(1527年)には、すでに嫡子春王丸(尚持)が吉原の里城で生まれているから、許斐山の再建よりも里城の方が先だったと思われる。尚持の嫡子宮若丸は、天文16年(1547年)に許斐山城で生まれている。

その後大宮司宗像正氏(黒川隆尚)が亡くなり、天文20年(1551年)、後を継いだ宗像氏男(黒川隆像)が大内義隆に従って殉死すると、宗像家の跡継ぎをめぐって騒動が起きる(山田騒動)。大内義隆を討った陶晴賢が送った鍋寿丸が後を継ぎ、陶が大友氏と組んだことで宗像家も陶・大友方にくだることとなった。

宗像家中でも反大友派で知られた占部尚安は、この間許斐山を出て古賀城に戻ったらしい。天文24年(1555年)の年、改元されて弘治となった10月に毛利元就が厳島で陶晴賢を討った。それに合わせるかのように、尚安は大友方に握られていた許斐山城を7月に取り返し、9月には古賀城から許斐山城に移っている。