貞保と百日紅の木
永禄12年(1569年)、九州に攻め寄せた毛利軍は、大友宗麟の戦略により留守をつかれ、九州からの撤退を余儀なくされた。あっという間の撤退で取り残された毛利方の九州諸将達は、大友氏に屈服するしかなかった。宗像氏貞も、和睦のために一方的な条件を受け入れざるを得なかった。
氏貞は妹を立花道雪に嫁がせ、自らも大友氏重臣の娘を娶る。更に、道雪は化粧料として、立花城からの攻撃の盾矛だった西郷の割譲を要求し、西郷党を追い払った。道雪は、西郷党同様厄介な許斐城主占部尚安とその一族も排除したかったに違いないが、西郷党と違い、宗像家古参の重臣だった尚安一家にまでは手を出せなかった。代わりに西郷党のまとめ役であり、占部尚安の娘婿であった河津隆家を氏貞に殺害させた。
多大な犠牲を払いながらも一応西からの脅威から解放された氏貞は、東の麻生氏との国境に決着をつけ、又領内の整備に力を注いだ。焼失していた宗像大社の辺津宮本殿を再建、領内五十六社寺の造営、再建にも力を尽くした。天正6年、辺津宮造営遷宮の折、庁座の着座をめぐって騒ぎを起した占部尚安の孫貞保は、許斐城を召し上げられ、その後長く蟄居し許しを得なかった.。それは単に氏貞の憤りが激しかったせいばかりではなかろう。大友氏や立花氏の手前、反大友色の強い貞保を政治の表舞台から下がらせ、服従姿勢を示す上でしたことと思う。現に天正13年に立花道雪が死ぬと間も無く、貞保は筑後守を回復している。又、戦乱が起きれば領内すべての社寺は戦の拠点に変わる。それを見越した上での寺社整備だったかもしれない。氏貞は、表面上では大友氏に服従していたが、裏では相変わらず毛利方の諸将達とつながっていたようである。
氏貞は、罪なき河津隆家を殺害したことで、生涯心に責めを負った。表向きは、隆家が反逆を企てた罪と言う事になっているが、隆家の子供達は尚安の孫であると言う理由で放免されている。更に、氏貞は隆家の子供達を愛育し、死を迎えるその時も傍らに付き添わせた。
天正14年(1586年)、氏貞が亡くなった。跡継ぎもないまま、病であっという間に逝ってしまったのだ。しかも、3年間はその死を隠すようにとの遺言である。夜更けに、人知れず遺骸を葬り、死を知る側近達は悲しむことすらできない。しかも、天正6年には、大友氏が島津軍に大敗し、島津が勢力を伸ばしながら北上して来ていた。長い間、大友氏と毛利氏の動向だけを考えてきた筑前の諸将達は、今や全く新たな局面を向かえようとしていた。こんなときにこそ、「主君を押したて一丸とならん」とするに、主君の影さえ見えず、宗像家中は混乱の一途である。
ついに島津軍が攻めて来た。と、思ったら、あっという間に秀吉の軍に押し返され、やがて太閤秀吉殿下の下向となる。この頃の宗像は何の方針も無い。ただ、時代の波にもまれながら、何をするにも「とりあえず」である。
敵とも味方ともよくわからない太閤殿下だが、今や天下人となった秀吉が下向するのだ。「とりあえず」お出迎え、そしてお見送りすることに決定。貞保にそのお役が回ってくる。貞保は、氏貞の死を悲しみ、せっかく賜った筑後守も名乗らず、八郎貞保と名乗っていた。そんな貞保だが、悲しみに沈む猶予も無く、宗像家のため、「とりあえず」とはいえ選ばれたからには、懸命にその任を果たそうとする。しかし、主君を失った宗像勢を哀れむ気持ちなど、秀吉にはなかった。
心を尽くして、蔦が嶽城にお迎えした太閤殿下が言い残したのは、蔦が嶽城の打ち壊しであった。間もなく宗像家は取り潰しとなった。
85歳でこの世を去った貞保は、曽祖父、祖父らとともに、今も氏貞公の墓を守っている。乙尾山の前面を飾るサルスベリの木は、貞保の墓木だという。この花を見に、毎年大勢の人が訪れると聞く。木の由縁が分らなくならぬよう、木札を立てたところ、誰かが写真の邪魔になるからと抜いていったそうな。しかし、筆者はあのサルスベリの木は、貞保の心なのだと思っている。宗像を愛し主家を思う心。自らの手で主君の城を破却したことをわびる心が、毎年あの美しい花を咲かせている。
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