六岳(嶽)神社/鞍手郡鞍手町室木

建保5年(1217年)に始まる宗像大宮司氏国の時代、承久3年(1221年)に承久の乱が起こったが、臼井家の兄弟(常則・常久・常有)は、後鳥羽上皇に味方し北条氏に弓を弾いた。兄二人は戦死し領地は没収、弟の臼井常有は幕府の目を避けて九州宗像大社の大宮司氏国を頼った。氏国は常有を庇護し自分の古参の家来だった占部氏の戸籍があいていたのを継がせたという。この元々宗像にいたという占部氏の痕跡を探していたが、最近になって六岳神社の社職を務めた占部氏を見つけた。

   

鞍手郡鞍手町の室木。この六ヶ岳の麓村にある六嶽神社は、宗像三女神を祀る。宗像三女神を祀る神社としては、宗像市にある宗像大社の方が有名であるが、鞍手に伝わる六ヶ岳神話によれば、宗像三女神が最初に天降ったのは六ヶ岳であり、土地の人は三柱様と呼んでいるそうだ。

六嶽神社の社記によれば 治承元年(1177年)宗像家より占部下野守という者が、当社職として奉仕していた。ただし、祭事にあたっては、大宮司(宗像氏)が執行していた。占部下野の子孫は天正の頃(1573−92)まで綿々と御社に仕え奉ったが、占部作右エ門という者に至って早死にし、その子孫は永く絶える事となった。天正18年作右エ門の妻は六岳の神社を八尋村の十六神社の祠官安永治部に譲ったが、その時旧記二巻(一巻は社務の記・一巻は騎馬の記)また、御神事帳一冊も祠官治部に受け継がれた。

 
     
     
<六嶽神社由緒>鞍手町誌による
宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、孝霊天皇のとき宗像三所に遷幸され宗像大神となった。その後、成務天皇七年室木里長長田彦が六ヶ岳崎戸山に神籬(ひもろぎ)を営んだのが当社の始まりであると伝えられている。
延喜七年(907)菊花を社殿の御紋に定められ、応安七年(1374)足利義満が社殿を造営した。宝永二年(1705)社殿再建のとき黒田長清が材木を寄進した。
明治四十三年(1910)、六ヶ岳上宮・八幡神社・貴船神社(森の上)・同社(下方)の四社を合祀した。
 
     

<六嶽上宮>

   

秋の大祭の後だったからか山道はきれいに清掃されている

 

山頂が近くなってきた

 

往古は堂々とした社殿があったらしいが...

 

古社殿は享禄年間(1528-1531)に炎上焼失し、ご神体は下宮に遷した。

 

その後は石殿だけになっていたというが、建て替えられたようだ。古い石が後側に積まれ残っている。

 

最近できた新しい鳥居

 
 

豪族宗像氏

北部九州の豪族宗像氏の起源は古い。天武天皇の3年(674年)には高市皇子を宗像徳善の娘が生んだという記録が残っているが、実際は 、それよりずっと以前神話の世界にまで連結している。ただし、宗像大宮司家としての歴史は、延喜14年(914年)宇多天皇の皇子とされる清氏親王が筑前守として下向し初代大宮司となってから始まる。占部・吉田・大和・高向は、清氏が九州に下向した時お供して来たが、この四人は任官叙位して仕えたので”勅下の四任”と呼ばれたとある。

宗像氏が他の豪族と決定的に違う点がある。宗像という地域は、七世紀の律令時代より、九州では唯一の「神郡」に定められていた。最大時には現在の宮若市・遠賀郡・壱岐を始めとして大分・佐賀県の一部にまで及ぶ範囲を治め、領地内の神々の祭祀を司っていたのである。その後の激しい勢力争いによって、領地は浸食され、奪われたが、各地域の神社祭祀を通じて、人々の信仰と深く結びついていた。

神職占部氏

戦国時代の武勇伝が注目を集める中、占部氏も武将としての側面のみが取りざたされるが、もともとの占部氏が担っていた神職としての側面を失っていたわけではない。占部貞保が書いたとされる『宗像記追考』を見ても、戦記物としてより、宗像家の全貌を記録として残しておきたかった意図がみられる。ただ、神事に関しては門外不出の奥義があるらしく、それを記録に残すことが出来ないことを本人も惜しんでいる。

占部氏の太祖は、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という。それより12代の孫雷大臣命(いかつおおみのみこと) が、仲哀天皇より卜部姓を賜った。天兒屋根命(あめのこやねのみこと)といえば、高天原で祭祀をつかさどっていた興台生霊神(こことむすびのかみ)の子で、天照大神の侍臣として仕えていた神である。天下一品の祝詞(のりと)奏者で天照大神が天岩戸に隠れた時、岩戸の前で祝詞を奏する役を果たしたとされている。

卜部姓の後、中臣姓となるが、中臣鎌足に至って自らは藤原姓を名乗り、従弟(いとこ)右大臣清丸に神道中臣姓を継がしめた。清丸の何代か後に、又卜部に復姓したというから複雑だ。最近入手した宗像の吉田氏の系図によれば、吉田氏の太祖も、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という。その祖が藤原朝臣を名乗っているのを見れば、藤原氏の始祖とされる中臣鎌足あたりまでは元を同じくしているのだろう。ちなみに有名な吉田神道は室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって大成された神道の一流派であるが、兼倶から吉田姓を名乗り、それまでは卜部姓であり、卜部神道とも呼ばれる。

神興神社と神興廃寺

福津市津丸にある神興神社は、宗像三女神を祀る。六ケ岳に降臨した宗像三女神が、室木の六嶽神社に着いた後、宗像三所に遷幸され宗像大神となる前に一時留まられた地とされている。

<神興神社>

   

現在の社殿は後から建てられたもので、元の本殿はスッポリ社殿の中に収められている。本殿は約1メートル四方の石造りで、背面には文化13年(1816年)建立とあった。「筑前国続風土記拾遺」には村人が祠に雨乞いしたところ霊応があったとしてお礼に石の祠を建立したという。

その時手水場を置いたが、南の畑の中にあった古い礎石を据えたという。すなわちこの礎石は、昔の神興廃寺の塔心礎で、長辺約2m、短辺約1.5m、高さ約0.7mの花崗岩質の石で昔の社殿の大きさを物語っている。

<神興廃寺址>

   

神社の南側には昭和40年代まで古瓦が小山のように積まれていたという。神興廃寺の遺跡である。この中から延喜11年(911年)銘の平瓦が発見された。調査の結果、寺は八世紀後半ごろ創建され、10世紀前半頃に修理ないし増築されたと想定されている。ここは、律令制度の元で郡司となった宗像氏一族の氏寺と考えられているが、12世紀頃に何らかの理由で廃寺となったとされる。(文化福津第4号2009「福津の歴史」及び福間町史参照)


現在神興神社境内に置かれている手水舎
神興廃寺の塔心礎だった