豪族宗像氏
北部九州の豪族宗像氏の起源は古い。天武天皇の3年(674年)には高市皇子を宗像徳善の娘が生んだという記録が残っているが、実際は 、それよりずっと以前神話の世界にまで連結している。ただし、宗像大宮司家としての歴史は、延喜14年(914年)宇多天皇の皇子とされる清氏親王が筑前守として下向し初代大宮司となってから始まる。占部・吉田・大和・高向は、清氏が九州に下向した時お供して来たが、この四人は任官叙位して仕えたので”勅下の四任”と呼ばれたとある。
宗像氏が他の豪族と決定的に違う点がある。宗像という地域は、七世紀の律令時代より、九州では唯一の「神郡」に定められていた。最大時には現在の宮若市・遠賀郡・壱岐を始めとして大分・佐賀県の一部にまで及ぶ範囲を治め、領地内の神々の祭祀を司っていたのである。その後の激しい勢力争いによって、領地は浸食され、奪われたが、各地域の神社祭祀を通じて、人々の信仰と深く結びついていた。
神職占部氏
戦国時代の武勇伝が注目を集める中、占部氏も武将としての側面のみが取りざたされるが、もともとの占部氏が担っていた神職としての側面を失っていたわけではない。占部貞保が書いたとされる『宗像記追考』を見ても、戦記物としてより、宗像家の全貌を記録として残しておきたかった意図がみられる。ただ、神事に関しては門外不出の奥義があるらしく、それを記録に残すことが出来ないことを本人も惜しんでいる。
占部氏の太祖は、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という。それより12代の孫雷大臣命(いかつおおみのみこと) が、仲哀天皇より卜部姓を賜った。天兒屋根命(あめのこやねのみこと)といえば、高天原で祭祀をつかさどっていた興台生霊神(こことむすびのかみ)の子で、天照大神の侍臣として仕えていた神である。天下一品の祝詞(のりと)奏者で天照大神が天岩戸に隠れた時、岩戸の前で祝詞を奏する役を果たしたとされている。
卜部姓の後、中臣姓となるが、中臣鎌足に至って自らは藤原姓を名乗り、従弟(いとこ)右大臣清丸に神道中臣姓を継がしめた。清丸の何代か後に、又卜部に復姓したというから複雑だ。最近入手した宗像の吉田氏の系図によれば、吉田氏の太祖も、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)という。その祖が藤原朝臣を名乗っているのを見れば、藤原氏の始祖とされる中臣鎌足あたりまでは元を同じくしているのだろう。ちなみに有名な吉田神道は室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって大成された神道の一流派であるが、兼倶から吉田姓を名乗り、それまでは卜部姓であり、卜部神道とも呼ばれる。
神興神社と神興廃寺
福津市津丸にある神興神社は、宗像三女神を祀る。六ケ岳に降臨した宗像三女神が、室木の六嶽神社に着いた後、宗像三所に遷幸され宗像大神となる前に一時留まられた地とされている。
<神興神社> |
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現在の社殿は後から建てられたもので、元の本殿はスッポリ社殿の中に収められている。本殿は約1メートル四方の石造りで、背面には文化13年(1816年)建立とあった。「筑前国続風土記拾遺」には村人が祠に雨乞いしたところ霊応があったとしてお礼に石の祠を建立したという。
その時手水場を置いたが、南の畑の中にあった古い礎石を据えたという。すなわちこの礎石は、昔の神興廃寺の塔心礎で、長辺約2m、短辺約1.5m、高さ約0.7mの花崗岩質の石で昔の社殿の大きさを物語っている。
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<神興廃寺址> |
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神社の南側には昭和40年代まで古瓦が小山のように積まれていたという。神興廃寺の遺跡である。この中から延喜11年(911年)銘の平瓦が発見された。調査の結果、寺は八世紀後半ごろ創建され、10世紀前半頃に修理ないし増築されたと想定されている。ここは、律令制度の元で郡司となった宗像氏一族の氏寺と考えられているが、12世紀頃に何らかの理由で廃寺となったとされる。(文化福津第4号2009「福津の歴史」及び福間町史参照)
現在神興神社境内に置かれている手水舎
神興廃寺の塔心礎だった
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