「隣船禅寺記録」より抜粋
占部甲斐守尚安について
「神湊の中世で一番縁の深い人は占部甲斐守である。隣船寺を建てた人であるが、その隣船寺の敷地は一時占部甲斐守が宿所としていたと思われる節がある。草崎城を築き、勝島城に籠もり、許斐山城主であった。
宗像家随一の武将であり、幼主宗像氏貞を擁しての誠忠は宗像の華と謳(うた)われた。占部三代、占部尚安、占部尚持、占部貞保の実績は今尚語り継がれるが、宗像の戦国時代の乱世に当たって大友氏の攻撃を防ぎ止めた大功労者である。宗像四任(シトウ)の筆頭者であり、氏貞も他の武将も一目も二目もおいて居た事が各記録にうかがわれる。」
占部右馬之助尚持について
「占部の社(やしな)は平(たいら)の姓占部右馬之助の霊を祀っている。祖父は壱岐守豊安。父は甲斐守尚安母は宗像の姓深田中務少輔氏繁の娘である。大永7年(1527年)丁亥年宗像郡許斐城で生まれる。(占部家の系図には吉原の里城とあるが...)幼名は弥六郎。性豁達(かったつ)にして雄偉。常に紙筆を愛し射御(弓術と馬術)を好んだ。祖父、父も共に之を奇とした。・・・(中略)・・・宗像郡田熊の村に葬り、僧侶により建興院殿桂巖宗光大居士と遺名す。父占部尚安は杖とも頼む長子尚持に先立たれて悲嘆にくれたが追弔菩提のため一寺を建立し寺号を建興院と称した。玉巖和尚を開山とした。(この後、永禄9年には神湊に隣船寺を建て尚持の菩提を弔った。開山は崇福寺から分座された玉心和尚である。)」
尚安・尚持のについて更に「占部氏家系傳」へ