永禄2年(1559年)己未九月二十五日、立花但馬守鑑戴、奴留湯融泉、麻生鎮氏に豊後勢を加えた大友軍が当城に攻め寄せた。城主占部尚安は
「この大兵を我が小勢をもってふせぐべきにあらず。中国に加勢をこわんとすれば、大内と毛利の鉾楯なれば、かなふべきにあらず。岳山の勢も、中国に至りて毛利に合力す。進退げんに窮まりぬ。一先ず城を開きて時節を待ちにしかず」
と、城を開いて大島に退いた。許斐城には奴留湯融泉、麻生鎮氏が替って入城、今度は白山の城に押し寄せて攻めようとする。この時宗像氏貞は十五歳であったが、要害は堅固でない上家中の多くを去年から中国毛利殿の加勢に遣わし城も無勢であったため、大島に渡海した。 >次へ
氏貞嶽山開城:1│2│3456789