家老や奉行は毎日寄っては何やかやと評定ばかりして日を送っていた。しかし、薩摩軍は二十八日には立花表に陣を替え攻めに入ったとの報せを受けて、処々に要害を建て、諸口の堅めを定め、人数の手合いを決めた。

氏貞はご病気中で、ご出馬はかなわぬと人々に言うが、皆納得がいかない。これほどの一大事の時に、ご病気中とはいっても、一言も承はらないというのも何か怪しいと囁(ささや)く。従って奉行の下知も行き届かない有様である。

ならば先神力を添玉い、逆徒を退けていただけるようにと、奉行一同承諾の上、神宮へ願書を捧げ奉った。天正14年丙戌八月朔日、吉田伯耆守重致・占部下総守貞康・石松對馬守尚宗・小樋對馬入道壽盛・石松市之丞守兼・許斐兵部少輔氏則・吉田伊賀守致勝他全28人連判 >次へ