大島/宗像市大島

宗像大社中津宮(宗像三女神の次女神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る)が鎮座する大島。他にも玄界灘に浮かぶ地島・勝島・沖ノ島など宗像郡の浦・島には宗像社の末社が置かれ、人々の信仰を集めていた。宗像氏はその神事を司り、浦・島の人々の信仰心は宗像氏の海上権掌握を容易にした。沖の島以外の島には城を配し水軍の拠点となっていた。特に詰城・退避所として重要だった大島には、永禄年間、許斐・占部・吉田の三氏が警備を担当し、在島した記録が残る。

玄界灘に浮かぶ大島

 

神湊からフェリーが運航している
左に見える岬の山の上に草崎山城があった

 

一日7便ほどあるフェリー

鐘崎を正面に見ながら出航する 

 

海に出ると草崎山城があったという岬の4峰が姿をあらわす。その変貌ぶりに驚いた

大島の渡船ターミナルが近づく

 

宗像大社中津宮の鳥居が迎えてくれる

まず中津宮を訪れる

 

静寂・おごそかな雰囲気である

本殿は県指定文化財

 

中津宮の中を抜けて御嶽山上り口に出る

山頂まで15分程度と社務所では聞いたが...

 

観光客が多いのでよく整備されている

結構きつかったが山頂に出る

 

眼前に広がる展望は絶景である

御嶽神社を参拝する

 

中津宮の奥宮、御嶽神社

展望台に登れば足立山から唐津・松浦半島まで見渡せる

海から来るものは全て把握できる展望台。許斐山と笠置山が一直線上に見える

大島警固打廻り

筑前国続風土記には宗像氏貞の時代、許斐氏鏡・占部貞保・吉田貞勝を大島に遣わして常に守らせたとある。吉田良喜の指揮下、三人には警固打廻りが命じられたが、たとえ下人達が馳走しても在島すべしとの厳命であった。又出船した時には判形の着到の注進を命じられている。 残っている文書の宛名に占八とあることから、永禄八年に元服を迎え、八郎貞保を名乗った以後のこととされる。

勿論大島が軍事上大きな意味を持っていたことは事実だが、それにしても何事があっても島を離れてはいけないとする厳重さはまるで島送り同然である。更に吉田良喜は元々出家の身であったのを宗像正氏がその利発さをかって召抱えた人物で、後に、宗像家の旧臣吉田の姓を貰って奉行に加えられた。軍事目的だけの人事であれば、生粋の武家筋で戦に長けた貞保の上にこの人物を配在するだろうか。

占部家の系図から見ると占部貞保は元服後も永禄12年(1569年)までほとんど毎年戦場に赴いている。大島に赴任していたとすれば永禄13年以降なのではないか。永禄12年は、毛利が北九州の覇権奪取のために4万の軍を派遣した年である。4月には吉川春元・小早川隆景が博多津より筑前進撃開始、立花城の攻防が始まった。一旦は立花城を落としたが、大友宗麟が手薄になった山口に軍を送ったため、10月になると毛利軍は突然の撤退を余儀なくされる。取り残された在九州の毛利方諸将は、大友氏に屈する他はなかった。宗像氏貞も大友と和睦、その条件として氏貞は西郷の地を大友方に明け渡し、翌年永禄13年/元亀元年正月(1570年) には西郷党の河津隆家を大友方の要求に従って殺害している。ここで下の系図をご覧いただきたい。

┌占部尚安─┬尚持─貞保
├ (間省略)├(間省略)
├          ├女子 河津新四郎驩ニ(氏貞に殺害される)妻 
├          └女子(吉田兵部少輔貞勝妻)
└女子(許斐安芸守氏鏡妻)
                      ┌占部尚持妻(後妻となる)─貞保
吉田重致(伯耆守・法名宗金)─┬女子
                            ├貞棟
                            ├(間省略)
                           ├
                            └貞昌(弥太郎)─貞勝

殺害された河津新四郎隆家の河津氏は、元々大内氏の家臣であり、大内氏の西郷支配の為に派遣されていた。西郷にある居城亀山城は八並の許斐城とともに大友勢力への押さえであり、その強化の為に大内義隆は許斐城主占部尚安の娘を河津新四郎隆家に嫁がせ縁戚とした。

上記の系図を見れば、大島に送られていたのは尚安周辺の人物だったことがわかる。和睦にあたり、大友氏は目障りな西郷の郷士達を若宮へと追い払い、西郷党の党首格であった河津氏を氏貞に殺害させた。この時、もう一つの目障り許斐山城主占部尚安も何とかしたかったに違いないが、尚安はすでに高齢であり、占部家は宗像家古来の重臣であったので、容易には手が出せなかったのだろう。

貞保達が大島に赴任したのはこの頃だったのではないかと推察する。大島に送ったのは大友氏の手前そうせざるを得なかったのか、彼らを保護しようとしたのかはわからない。ただ、大友氏の目前から貞保を消した。天正6年(1578年)宗像社辺津宮本殿の遷座式で、貞保は氏貞の逆鱗にふれ、上八の邸宅に籠居するが、(軍記5へ)その翌年33歳で嫡子が誕生。次々に子供が生まれているので、以後は上八村に定住したと思われる。したがって大島にいたのは永禄13年/元亀元年正月(1570年) 〜天正6年(1578年)の間と思われる。同じく警固打廻りだった許斐安芸守氏鏡は天正6年にはすでに奉行の位置を回復しており、吉田貞勝はその後吉田良喜の跡を継いで奉行職についている。辺津宮の遷座式での一件がなければ占部貞保も奉行職につくところだろうが、許斐城を取上げられ、籠居の身になった。この時、上八の領地は百八十七町もあったのにそのまま残され、許斐の三百町は許斐城と共に取り上げあられたのも、大友氏との事を抜きには考えられない。

妹を立花道雪に嫁がせ、屈辱的条件を呑み、服従の姿勢をとりながら、氏貞は和睦に守られ、旧領を回復し、内政にも力を入れた。東の境界線をめぐりしばしば争っていた麻生氏とも、遠賀川の西方は宗像領、東方は麻生領との事で決着をつけた。戦火に失われた宗像社辺津宮第一宮本殿も造営した。天正7年(1579年)には秋月種実らと密かに通じながらも、天正9年鞍手郡若宮荘で元西郷党と氏貞の家臣それに秋月氏家臣が立花氏の輸送隊を襲った小金原の戦いに関しては知らぬ存ぜぬと白を切る。こうした宗像氏貞の政事手法にとって、許斐城に貞保を置くということは、立花城に対しての警戒心を露にすることであり、大友氏の疑心と警戒心をあおることとして避けたかったのだろう。

大島展望台

大島は玄海灘から響灘に至る海域を押さえる重要なポイントである。中国の毛利氏をはじめ筑前国の反大友勢力とも回路連絡を取れば自由に往来でき、大友氏に対してはここを通る海上ルートを遮断する事が出来る。軍事上の重要性に加えて、郡内有事の場合の避難場所としても確保しておかなければならない場所であった。

大島の御嶽山展望台に登った時、その眺望に驚いた。目の前に広がる光景を見て息をのんだ。宗像氏が浦・島と海を支配する領主だったことの意味を知った。理屈では理解していたが、大島の重要性を肌で感じる。

玄界灘を見下ろせば、海上を往来する船の様子を一瞬にして把握できる。陸から島に向かう船があれば、決して見逃すことはないだろう。

向こう岸には宗像の郷が広がり、目のいい昔の人なら陸で何が起こっているのか見えたかもしれない。

はるか向こうには山が幾重にも折り重なり、足立山から立花山まで見渡すことが出来る。真正面に許斐山、その後ろに笠木山が重なって見える。合図も各山々に置いた味方に瞬時に送ることが出来ただろう。

さらに西に位置を取れば、唐津から松浦半島までの範囲を見渡すことが出来るのだ。海を制覇することの偉大さを思い知った。

軍事上のことだけではない。「中世筑前国宗像氏と宗像社」によれば、宗像郡中の人々は、大友勢による人の強奪を恐れて渡海した記録があるという。船で水と薪を運んでいる様子から、在島による人口の急増により、水と薪が欠乏したことがわかる。さらに、郡中の僧侶・俗人・農民なども渡り、家臣妻子のみならず、領民が大友勢による乱取りを恐れて避難している。大島には急ごしらえの仮屋が軒を連ね、苦しい生活を余儀なくされたという。

強い潮風に吹かれながら、貞保を思う...。この場所の重要性がわかりながらも、中央から取り離されたような寂しさ...。何事も起こらない日々、時々の退屈さを思う。退屈さと平凡さの中にも緩めることの出来ない緊張感がある。初陣の時、祖父尚安の弟重安が止めるのも聞かず、飛び出していった貞保である。父も、祖父も、曽祖父も戦場で名を上げた、その血が騒ぐ。そんな貞保が離島でただ見張りを勤める。どんなにか宗像の郷に戻りたかっただろうか。

神湊の岬と勝島が見えてくる

岬の先端に大島城があった。さらば大島!