許斐山城の端城、高宮城
大宮司氏貞の時代になるまで、宗像の西側は西郷と呼ばれ、大内氏の直轄領となっていた。境界線は現在の福津市と宗像市の境界線に近いと思われるが、実際は複雑に入り組んでいたようである。
占部豊安が城を築いた許斐山も大内氏の直轄地であったので、豊安が若宮の自分の領地を差し出すことで築城の許可を得たのであった。高宮城は許斐城の端城として大内家より城代が派遣されていたという。
この山の南の腰に多賀美作守隆忠という人のお墓がある。地元の人たちの間では、高宮城の城主だったので、討ち死にした時この山に村人が葬ったのだという。筑前国続風土記には、昔はしるしがあったが今はなく、村人といえども知る人はまれだと書かれてある。人も入らなくなった山の中で探すことも無理とあきらめていたが、先日地元の人の好意で案内していただいた。藪をかき分けていくと大きな石があり、それが墓だという。元々あったところから転げ落ちてしまっていたのを、村の人が引き上げたのだそうだ。
弘治3年(1557年)7月、多賀美作守隆忠は、立花城の大友勢を引き連れて許斐山城を攻めた。これを、宗像勢が迎え撃ち、畦町の河原で討ち取ったという。多賀美作守隆忠は、もともと大内家の家臣だったが、大内義隆が死んだ後、大友氏に降り、宗像氏を攻めたことになっている。ただ、その数年前まで実は許斐城の城主だったのである。この間の事情をもう少し追ってみることにした。
多賀氏について
許斐山の南方、旧唐津街道から少し奥にはずれた所に宗生寺(そうしょうじ)がある。 この寺は、文明15年(1483年)許斐城主 多賀出雲守隆忠が亡父菩提の為に建立したといわれる。又、この寺のある大穂村の西には、貴布祢社という産神があって、明応年中(1492―1501年)に許斐城主多賀民部少輔隆忠が建立したという。(筑前国続風土記拾遺より)
更に占部家の家系図には、天文24年(1555年)、多賀美作守隆忠の許斐岳城に夜襲をかけて落したという記述がある。すべて隆忠 という名前は同一ながら、年代の開きを考えると親子など2・3代にわたって許斐城主だったと考えたほうが自然かもしれない。
宗生寺 |
大穂村の貴布祢(貴船)社
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大内家の家臣として筑前内に目代として置かれた河津氏が西郷の亀山城を居城としていたように、多賀氏は大内家から筑前の管理職として派遣され、許斐山城に居城としたと考えられる。土地の豪族が城主となってあたりの領地を領しているのとは立場が違う。大内氏の指示により役職も住居も移動した、今でいう転勤族のようなものだったのではないだろうか。
許斐岳城の攻防
享禄2年(1529年)、占部豊安は、大内義隆の許しを受けて許斐城を再建した。その時まで許斐山は大内氏の直轄に入っていたが、城はしばらくの間廃城になっていたというから、多賀民部少輔の後、許斐山城はあいていたのだろう。事実「宗像記追考」によれば、この頃美作守隆忠は、検断職を任じられ、大宰府に居住していたという。
さて、占部豊安が許斐城を再建してから、20年位は占部親子が引き続き許斐山にいたのではないかと思われる。天文16年(1547年)には、豊安のひ孫、宮若丸が許斐城で生まれているからだ。
一方、同24年(1555年) には、占部尚持が、多賀美作守隆忠の許斐岳城に夜襲をかけて落としたというから、天文16年から24年までのどこかで城を出ていることになる。
実はこの間大事件が起こっていた。天文20年(1551年)大内義隆が陶晴賢の反逆にあい自害したのだ。この時宗像家当主黒川隆像(宗像氏男)が殉死したため、宗像家に跡継ぎをめぐるお家騒動が起こった。山口から前大宮司黒川隆尚(宗像正氏)の側室の子、黒川鍋寿丸が宗像に送られてきた。鍋寿丸は前大宮司黒川隆尚が山口に出向中に生まれた子で、母は陶晴賢の姪といわれる。当主といってもまだ幼く、陶晴賢が一緒に送り込んだ側近達のしたい放題だっただろう。その半年後には、大友義鎮の腹違いの弟、晴英(大内義長)が山口に入り大内家を継いだ。
新しい当主宗像鍋寿丸も、大内義長も、後ろにいるのは陶晴賢であり、陶は大友義鎮と通じていたので、宗像家の旧臣達の混乱ぶりは相当なものとなった。大友氏の支配を免れるために大内氏の力を頼み、一心につき従ってきた宗像家であったが、今や反大友を貫こうとする他の諸将達の討伐にまで駆り出されることとなる。
この頃、表向きでは大内義長と鍋寿丸(氏貞)に従っていたが、裏では家臣たちが生き残りをかけて新たな道を必至で模索していたに違いない。のちに後ろ盾となる毛利氏もまだ、表舞台に出てきてはいなかった。混乱の中、反大友派だった占部尚安一家の立場は微妙であったと思う。許斐山も大内家の新当主義長により、以前のように多賀家の管理下に戻されたのかもしれない。
やがて窮地に追い込まれた占部氏の巻き返しが始まる。毛利元就の諜略を受けたのか、自ら元就の協力者となったのかはわからない。天文24年(1555年)
には、占部尚持(豊安の孫)が、多賀美作守隆忠の許斐岳城に夜襲をかけて落とし、城を取り戻した。このわずか三か月後に厳島の戦いが起き、占部親子は芸州に行き毛利元就に意を通している。一方、宗像家は陶晴賢に援軍を送ったとの記録がある。又弘治3年(1557年)占部尚持は許斐城奪回に来た多賀隆忠と大友勢を迎え撃ち、多賀隆忠を畝町(=畦町)河原で討ち果たしたというが、この直前、鍋寿丸は大友義鎮に対し、秋月文種攻撃に駆けつけるとの誓約をしている。
一見矛盾した宗像家の動きであるが、鍋寿丸がまだ幼かったために、宗像家としての方向性を決定することができず、家中で、様々な駆け引きが行われていた結果であろう。
多賀隆忠については大内家の家臣だったが、裏切り、大友方についたと書かれてあるが、許斐城から追い落とされた結果大友氏を頼ったというのが本当なのではないか。多賀隆忠は大内義隆亡き後、陶晴賢によって立てられた大内義長に従い、混乱した筑前から義長のもとに報告書を送っている。大内義長が、陶晴賢の傀儡(かいらい)といっても、又大友義鎮の弟といっても、大内家最後の相続人であることに間違いはなかったから、この時期、義長に従うということが、大内家に対する裏切りとは言い切れない。
一方、占部尚安の一族は、毛利氏を後ろ盾とすることで北部九州における宗像家の安泰を図ろうとした。その結果、大内義長に従い立場のはっきりしない多賀氏が許斐城にいることは防衛上都合の悪いことであった。又、大内家にとられていた宗像領内の直轄地を取り戻すには、今が絶好の機会であった。
隣の西郷にいた河津氏も多賀氏と同じく大内家直接の家臣であったが、河津隆家は占部尚安の婿であり、その絆は固く、鍋寿丸が元服して大宮司氏貞となった時代には、両家共に宗像領の西の防衛に力を尽くした。
多賀美作守の墓
多賀美作守隆忠は許斐城を奪回できずに畦町の河原で討たれた。この後、大友勢の攻撃は激しさを増し、高宮城には、吉原源内左衛門が城番として置かれた。(
源内左衛門の墓)
武士の世界では敵方であっても、土地の人々にとっては、大内家のお役人様であり、許斐や一帯の山の城主様であったこともある高貴のお方である。大切にも気の毒にも思う気持ちで近くの山に祀ったのだろう。敗将となって尚、尊ばれ、語り継がれる。領民の心とはありがたいものである。