吉原源内左衛門
吉原源内左衛門は正しくは吉原源内左衛門典通という。勇猛果敢で、戦記にも名がよく残っている。ちなみに、許斐山に登る途中に麻生鎮氏の墓があるが、矢を射て討ったのもこの源内左衛門である。鎮氏の墓へ
許斐山の南西、畦町の北に高宮岳がある。この山頂に高宮城があり、弘治4年(1558年)、古賀原で立花勢との戦があった時、吉原源内左衛門が定番(城番)であったと「宗像追考記」に書かれている。大内氏の時代には、この辺りは大内氏の直轄地で、高宮岳には直臣であった深川氏が住んでいたというが、弘治の頃は大内家が滅んだ混乱期であったから、腕の立つ源内左衛門をここに置いたのだろう。許斐山の西方、西郷にいた旧大内家臣達は宗像家と協力体制にあった。吉原の里城とともに高宮城は許斐城の出城として築かれ、唐津街道を上ってくる敵に備えた。なかでも弘治3年(1557年)の畦町河原の合戦は有名である。現西郷川河原橋付近が合戦場址という。(福間町史明治編)高宮城へ
吉原源内左衛門は、天正11年(1583年)3月15日に戦死した。同日、立花山の立花道雪以下大友勢が宗像郡内へ進攻。急報を受けて駆けつけた宗像氏貞勢と許斐山大手口の吉原で激戦となった。この時立花家臣薦野勘解由之丞に討たれたという。これをきっかけに宗像勢は崩れ氏貞は蔦ヶ岳城に退き、許斐山の籠城組は大島に逃れたという。吉原源内左衛門は剛勇の士として広く知られていたらしい。討った薦野勘解由之丞には大友義統より兜が贈られたという。 源内左衛門の墓について
源内左衛門の墓は平成10年4月に吉原哲男氏によって再建された。氏は他界されたが、生前自分の先祖は占部姓であったと言っておられたそうである。墓は昔の墓石の上に被せるように建てられたそうだ。
墓碑には「吉原源内左衛門貞安」と書かれ、「永禄3年8月17日」と刻まれている。貞安といえば占部尚持の弟である。天文5年(1536年)正月に生まれ、初名は、五十治丸。同22年(1553年)4月17日元服。幼名を守安といい、新五郎、後に源内右衛門貞安と名乗った。ここで、吉原源内左衛門典通と、占部源内右衛門貞安と似たような名が挙がってくるのだが、筆者は別人ではないかと考えている。それと、吉原源内左衛門が亡くなったのは天正11年(1583年)3月15日で、永禄3年(1560年)8月17日ではない。
天正11年に源内左衛門が討たれた話は、 薦野系譜に載っている話であり、宗像氏側の記録にはない。「宗像記追考」においても、この戦の記録はあっても、そこに源内左衛門の死に関する記述はない。言い伝えでは、やはり永禄3年午後の激戦で討死したことになっているらしい。観音堂下の急な坂道を少し下ったところであったという。(福間町史明治編より)もしも吉原源内左衛門典通=占部源内右衛門貞安で永禄3年(1560年)8月17日に亡くなったとしたら、同日亡くなった兄、占部尚持の為に父が建てた寺に共に祀られたはずである。一方、天正11年には討った薦野氏には書状のみならず、兜まで贈られているから説得力がある。
この墓は元々はただの石で、何も刻まれていなかったとの証言がある。地元の古老によれば、石は赤ん坊よりも小さく、吉原様と呼ばれていたそうだが、それが誰の墓とかそんなことは知らなかったという。福間町史に載っていた古い写真は、きちんとした墓石であったが、現在の新しいものとも違う。更に、向きも現在とは反対向き、すなわち許斐山を背にして建てられていた。この墓所には他にも近在の人達の墓があって、毎年お盆に墓地の掃除をしていたが、今はこの奥にある納骨堂にまとめられ、この墓一つが残された。
宗像家臣団の中には古くから吉原姓が見受けられ、吉原源内左衛門尉宛ての宗像氏貞の感状とともに、吉原大炊助・善三郎宛ての感状が一緒に所蔵されて残っていることから考えて、吉原大炊助・善三郎は源内左衛門の先祖と推測される。代々功績多い家柄なのだろう。共に嫡男と思われる吉原七郎が加冠されて繁通と号した時の宗像氏貞発給文書が残っている。吉原源内左衛門一人が討たれたせいで、宗像勢が総崩れになるほどの人物だとすればすごいことだ。この豪勇を許斐の城を護った占部尚持・貞安兄弟と合体させたような墓であるが、万一占部貞安=吉原典通でなかった場合には本人達に気の毒である。占部氏としては豪勇英傑が先祖になれば光栄な話であるが、その為に吉原家の功績を奪ってしまっては申し訳のない話である。ちなみに占部源内右衛門貞安は天正11年の後も、生存していた証を残している。
墓は道路脇2・3メートルほどの高さの切り立った岡の淵にあって、目立つことこの上もない。命をかけて宗像を守ろうとした豪勇の士が、今も人の往来を見つめている。
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