許斐山/吉原登山口

福津市と宗像市の境にある許斐山。西側吉原登山口から上ることにした。麓の八並の村の南に唐津街道が通る。畦町(あぜまち)から、北東に向かえば原を通って赤間に至る。南西に向かえば上西郷、飯盛山を抜け、薦野、青柳にi至る。飯盛山には宗像側の出城があり、その向こうの薦野には大友側の出城が、そしてその先には難攻不落な要害立花城があった。



唐津街道、畦町から吉原口に向かう道から望む

<許斐山>
許斐山は標高271メートルの独立した山で、福津市と宗像市の境にある。登山道は両市側にあり、福津市八並にある吉原登山口から頂上までは約40分で登ることができる。
「天慶2年(939年)、初代宗像大宮司清氏の次男氏章が許斐姓を賜り、宗像郡王丸村(宗像市王丸)に城を構えて居住した。以来、後の山を許斐山と呼ぶ」(宗像郡誌)とあるが、許斐氏章には子がなく一代にて断絶した。天承元年(1131年)十七代宗像大宮司氏平は神職を氏房に譲り、許斐岳城を築城、姓を許斐と改め居住した。この氏平が許斐氏の祖であり、初代許斐岳城主である。
約400年後、享禄2年(1529年)に宗像の重臣占部豊安が、この山が天然の要害であり、宗像のほぼ中央に位置していることから、時の守護大名大内義隆に久しく廃城になっていた許斐山城の再興を願い出て再び築城した。その後55年間、許斐山城は大友氏や小弐氏などの軍勢の前に立ちはだかり、宗像家の要塞としての役割を担った。

吉原の里より望む許斐山

許斐(岳)城

享禄2年(1529年)、占部豊安は乱世に城とすべき所を探したが許斐山に及ぶ要塞が無かった。そこで豊安は許斐山の持主大内義隆に願い出てこの場所を賜った。かわりに自らの所領であった吉川庄三百町を代地として捧げることを申し出たため義隆も快諾したようだ。大内氏の時代、その覇権が北部九州に及ぶに当たり、宗像氏も大内氏に属し、*注)社家領六百四十余町も大内氏支配となっていた。大内氏は西郷(現在福津市)を糟屋郡として宗像郡から切り離し河津氏を筑前目代として西郷に置いていた。許斐山も大内氏の直轄となっていたため、許可を得る必要があったのである。*注)追記:これは宗像記の記載であって、この部分を宗像記追考では相違とし、以下のごとく修正を加えている。宗像の領は、神領八百七十五町は社務の領、氏人及び武役御家人の旧領は以前のごとく領し、そのほかの宗像領がおおむね大内殿の支配になった。又、大友方の城主に切り取られた分もあった。(H26.12.10)

ここで、当時の城がどのようなものであったか興味深い記述があるので、原文通りに写してみる。【福間町史 明治編】より

当時の城は、私達の概念にある城とは全くかけ離れた、天守閣もなければ、櫓もなく、もちろんあの華麗な白亜の土塀もない。ただ頑丈な木で幾重にも外柵をめぐらしてその中に物見の櫓を建てた位のもので、要はその地形にあったのである。難しく言えば城は、適当な位置にしかるべき地形を活用して土木と、建築との人工を施した「物」である。昔の軍学者は、土木工事を普請(ふしん)と言って、普請を軍学者の担当すべき最も大切な仕事と考えていた。その工事は、高いところを削り低いところを埋め、堀を掘り、土塁を築き、城全体の平面的な形と、立体的な形とを作る事である。作事(さくじ)はその普請の出来上がった状態に応じて、その上に主として木造の建築物を設けるのである。これを武士である軍学者は、大工職人のする仕事として、城としてはむしろ補助的な施設とみなしているのである。世間一般の人は、城といえば天守閣や、櫓のことを思い浮かべるが、城というものは実はこの普請によってできたものをいうのである。すなわち建物でなく、城全体の土木工事をいうのである。

更に、占部豊安が所領と引き換えにしてまでも欲しがった理由として、許斐山が備えた好条件を次のようにあげている。

1. 宗像のほぼ中央部に位置している独立した山であり、隣に連なる山が全然ないため山伝いに或いは官道から敵が来るという危険がない。
2. 白山・蔦ヶ岳と四つ塚の連山は宗像東部の平野をはさんで指呼の間にあるし、この四つ塚の連山が、宗像一族に守られて安全である限り、許斐城の東北は絶対に安全である。 
3. 大手口吉原の里城一帯が封塞されても、搦手である王丸口から兵糧、武器の補給が自由にできる。
4. 山自体はいくつもの渓谷によって形づけられ、峻嶮な断崖と、千刃の渓谷は登頂するまでの道を制約して、限られた道路を行くほか登頂する方法はない。
5. ひとたび登頂すれば展望は大いに開けて宗像郡内は視界の内にあって、兵の侵入、移動を監視するに絶好の場所である。

筆者は最後にこう締めくくっている。

吉原の里城をもって 大手口とし、自然の渓谷をもって塁となし、さらに自然の岩石を以てこれを補った許斐の城塞は、ほとんど完璧の山城といっても過言でなく、まさに占部壱岐守豊安が、その所領三百町歩を惜しみなく捨て、ここに城を構えた所以がわかるような気がした。(吉原登山口の方が大手口にあたり、ここに吉原の里城が築かれていた。「吉原の里城」へ

許斐(岳)城主

許斐城主に関しては、許斐氏・占部氏・河津氏等様々な説があるが、実際はそのどれもが正しいというべきである。何せ4・5百年の間の事である。この絶妙の位置にある山を、必要な人が、必要な時に、必要な目的で使用したと考えればよい。以下に列挙してみる。

◎天慶2年(939年)、初代宗像大宮司清氏の次男氏章が許斐姓を賜り、宗像郡王丸村(宗像市王丸)に城を構えて居住した。以来、後の山を許斐山と呼ぶとあるが、許斐氏章には子がなく一代にて断絶した。

◎天承元年(1131年)、十七代宗像大宮司氏平は神職を氏房に譲り、許斐岳城を築城、姓を許斐と改め居住した。

氏平は何故築城したか?

第7代大宮司氏高の後、嫡男氏助が第8代大宮司、弟氏季が9代大宮司となった。父氏高は嫡男氏助ではなく弟氏季に領地などを譲り相続本家としたため、この事が後々の争いの火種となった。

この後大宮司は氏助・氏季・氏職3兄弟の子息の間で受け継がれるが、氏助の孫氏平の代になって、氏職の子氏房との間で争いが起こり戦に及んだ。長承元年(1132年)のことである。この時御殿を始め田島の在家も焼失されたという。

又、氏平は相続本家を継いだ氏季の孫氏信とも仲が悪く、互いに城郭を構え、ついに天養元年(1144年)戦に及んだ。同年7月氏平は兵を従えて氏信の居城だった片脇城を攻め落とした。氏信は上洛して鳥羽法皇の院宣を受け、氏平は久安2年官職を辞した。この時三社の社檀を始め大宮司館がことごとく焼失したとある。

尚、保延4年(1138年)氏信が第20代大宮司になってから仁平3年(1153年)まで氏信と氏平で数度交代を繰り返している為、戦の年は久安2年の事とも取れる記述があり、又久安5年のことともいい定かではない。(H24.6追筆)

◎宗像軍記に、「建長3年(1251年)、宗像氏長が白山城・片脇城・許斐城他を築き、自らは白山城に居し、氏盛を許斐城においた。」とあるが、建長3年ならば長氏の誤りであろう。氏盛は長氏の子である。軍記は48代長氏と50代氏長を混同している。宗像系図には氏盛の時、許斐城築城の記載がある。(H24.6修正)*注)正確には『訂正宗像大宮司系譜』

◎暦応元年(1338年)、河津倍種は剃髪して浄閑と号したが、謀反の疑いがあった秋月次郎を館に招いて捕え、将軍家に献上したことで、許斐の城主に補されたという。

◎文明15年(1483年)、許斐城主 多賀出雲守隆忠が亡父菩提の為に宗生寺を建立したという記録がある。又、大穂村の西には、貴布祢社という産神があって、明応年中(1492―1501年)に許斐城主多賀民部少輔隆忠が建立したという。これは、大内氏が筑前経営の為に直臣の多賀氏を許斐城に置いていたと思われる。

◎前述の河津氏も大内氏の家臣となってから、宗像の西方域西郷を任され、大内氏の筑前経営の一翼を担っていた。飯盛山城・冠山城・許斐城などを居城としたこともあったが、それらの山の城主は時々の事情により入れ替わっている。唯一亀山城だけは、大永7年(1527年)以後変わりなく、河津氏の居城となった。

◎享禄2年(1529年)、占部豊安は乱世に城とすべき所を探したが許斐山に及ぶ要塞が無かった。そこで豊安は許斐山の持主大内義隆に願い出てこの場所を賜った。

始め許斐氏が居城とした頃は王丸側に大手門があったという。後に占部豊安が再建した時、許斐城はしばらく廃城になっていたという。城といっても、安土城のような大がかりなものではない。板壁・土壁の平屋だったという昔の城は、必要のない期間があればすぐに老朽化して使えなくなっていたのではないだろうか。豊安が再建した目的はただ一つ。防衛・戦闘目的である。自然、大手門は八並(吉原)側になり、麓には吉原の里城を築き、天然の地形を最大限利用して、許斐山を要塞化したのである。以後50年間余り、宗像氏貞によって任を解かれるまで、三代にわたってこの城を拠点とした。

 
 
 

吉原登山口から暫く登ると、麻生重氏の墓に着く
春に、麓の吉原の人が神酒と五穀を供えて祭礼する

 

麻生重氏の墓の傍らに立つ不思議な木。
なにやら神秘的なものを感じる

 

麻生重氏の墓

麻生重氏というのは、麻生鎮氏(しげうじ)のことであろう。 「鎮」の字は大友義鎮の一字を受けたもので元の名は不明である。鎮氏の姓に関しても諸説あって、大宮司職を奪うために大友氏を頼った宗像氏一族であるともいわれる。

九州の覇権をめぐって大友宗麟(義鎮)と毛利元就との攻防が続く中、ついに大友宗麟が豊前・筑前・肥前3国を平定。永禄2年(1559年)六月には筑前国守護の地位を手にした。ところがそのすぐ後九月になると、毛利元就は突然門司城を襲い、九州に手を伸ばしてくる。一旦は制圧された毛利方の諸将が再び勢いづくのを警戒した宗麟は筑前宗像を押さえる為、永禄に入って数年間度々軍を送った。(参照筑前宗像争乱へ

永禄2年(1559年)己未九月二十五日、立花但馬守鑑戴、奴留湯融泉、麻生鎮氏に豊後勢を加えた大友軍が宗像を襲った。この時宗像の兵は毛利氏を加勢する為に中国に出張中で領内は手薄だった為、宗像氏貞を始め、許斐岳を守っていた占部尚安も城を棄てて大島に渡った。

父尚安の無念を晴らすため嫡子占部尚持は、家臣神屋主馬允を許斐城に潜入させ、翌年三月に夜襲をかけて許斐城を奪回した。 この時、許斐城には奴留湯融泉、麻生鎮氏が入城しており、鎮氏は尚持に追い詰められながらもしばらく持ちこたえ防いでいたが、或者は討たれ、又落ち延びて力及ばず、自らも主従6・7人で峰を降り吉原口へ落ち延びる。吉原源内左衛門典通はこれを見て矢を取り引打ち掛けたので一人も残らず撃ち殺されたという。(宗像記へ

 

多数の兵が来ようと、狭い坂道を縦隊になって攻撃するしかない

許斐城の用水池址、金魚がいたという。豪の底は赤土と石灰を混ぜ一尺くらいの厚さに突き固められたという

 

<許斐山山頂にある案内板の記述>

この王子神社は天安元年丑年(857年)に熊野権現の奥宮として勧請されたもので素箋鳴尊(すさのうのみこと)が鎮座されている。
今では唯一の宗像大社境外直轄摂社であり、例祭は四月三日で古くから厳粛な祭儀が営まれている。現在の石祠は明治十八年に建立されたものである。
また、この王子神社前には、宗像郡内の人々に午前、午後の刻を知らせる鐘楼があったと伝えられる。
外的の進攻に備え自軍の士気を鼓舞したりするために建立されたものであろう。また 吊るされた鐘の高さは1メートル三十九センチ重量は約754キロもあり、龍の頭の形をした「つりて」が200余もあったということである。
これは、七九代宗像大宮司氏貞が病気平癒祈願のために大阪の鋳物師に作らせ、宗像大社に奉納されたものが、鐘楼建立にあって刻を知らせる鐘となったと云われる。
又、この西南百メートルの地には、城中の生活用水を賄った金魚池の跡も残っている。

<補筆>地元の人の記憶では鐘の銘に「宗像大宮司氏貞黄金拾枚潰鋳之」と浮き彫りにされた文字があったという。鐘は南の崖下に転げ落ち、付近の何者かか寸断して売却してしまったという。

山頂にある王子神社の祠
この山頂が本丸址である

山頂の本丸址から一段下がって二の丸址がある
10年ほど前は草が生えて荒れていたが、今は登山クラブの人達によって山小屋が建てられ、きれい整備されている。

 

南側は木が繁茂し今は見通しが悪い。昔は城や櫓(やぐら)から敵の襲来をいち早く発見できたはずである。
高宮城や、飯盛山城からの合図も良く見えただろう。

南側の緊迫感とは対照的に、振り返って後ろを見れば北側にはのどかな宗像の郷が広がる。はるか向こうには、湯川山、孔大寺山、城山その向こうは遠賀の麻生領に通じる。領土を護るとはこうゆうことなのか....尚安もこの風景を毎日見ていた