吉原村の前にある溜池は寛文6年(1666年)の築堤されたもので、それ以前は深い谷になって狭い段々の湿田であったに違いないという。溜池の道を隔てて反対側は観音堂のある小山だが、急勾配に切り立った斜面である。すでにこの付近から自然の要害が続いていたのだろう。実際、吉原の里城があったと思われる場所も含めて、許斐山に取り掛かるまでにも待ち伏せにふさわしいような場所が幾つもある。
永禄3年(1560年)8月17日の戦では、観音堂下あたりから里城あたりにかけて激闘が繰り返された。旧暦8月のことであるから、陽暦では9月である。秋とはいえ、今だ太陽は真夏を思わせるような暑さであったという。朝の五ッ半頃から夕七ッ頃というから、九時ころから午後四時頃までのことである。旗指物と、矢楯とホラ貝で、谷は埋まり、山は鳴動して物凄く、おびただしい屍の臭気に付近の百姓達は、数日の間食事を口にするものがなかったと古老は語り伝えているそうだ。「参照福間町史明治編」吉原の郷へ
占部尚持のこと
享禄2年(1529年)、占部豊安は乱世に備え、自らの所領であった吉川庄三百町と引換えに許斐岳城の再建を大内義隆に願い出た。その年許斐山を再建すると共に吉原に里城を築いて居城したといわれている。
大永7年(1527年)正月一日、占部豊安が許斐城を再建する二年前、豊安の孫春王丸が吉原の里城で生まれた。吉原の里城は許斐城再建の折に建てらたとされるが、実際は許斐城再建に先立って造られたようだ。
春王丸(尚持)の 母は時の宗像大宮司正氏の兄弟氏繁の娘であった。正氏は兄弟氏続と大宮司の座を争い、氏続を追ったが、まもなく大内氏に呼ばれて山口に出向し、大宮司の座は氏続に譲った。正氏は周防黒川郷を与えられ黒川隆尚と名乗ったが、留守中の宗像の守りを堅くする為、縁戚関係にあり、自分に近かった占部豊安を許斐城に置いた。春王丸(尚持)も、その父尚安も「尚」の一字は黒川隆尚から受けた諱(いみな)である。
14歳で初陣を飾り、翌年元服して弥六郎尚持を名乗った。山鹿城主麻生形部少輔家助の娘と婚姻、天文17年(1547年)には嫡子宮若丸が生まれている。同じ頃、尚持の妹は大内氏の勧めにより、西郷の亀山城主河津隆業の嫡子隆家に嫁いでいる。宗像の東の麻生氏、西の西郷党との同盟関係を強化する為の婚姻であったと考えられる。
天文20年(1551年)大内義隆が自害。同時に大宮司宗像氏男(黒川隆像)も亡くなると、亡正氏の側室の子鍋寿丸が宗像へ送られてくる。前大宮司正氏と近かった占部家であったが、幼い鍋寿丸の後見人は陶晴賢であり、大友氏と結んでいた。宗像家の跡継ぎ候補は一掃され、鍋寿丸が後継者と確定した後にも、占部尚安と尚持親子は、大友氏に下ることを良しとせず、密かに毛利氏に通じて厳島の戦いに参戦した。陶晴賢が毛利元就によって滅ぼされた後には、宗像家も毛利氏についたため、占部氏も、毛利氏と宗像氏貞(鍋寿丸)を助け、豊前、中国地方に遠征した。
厳島の戦い以降、弘治・永禄年間にわたり、北部九州の覇権をめぐり毛利氏と大友氏の攻防激しく、宗像の西の守りであった許斐山は立花山を拠点とする大友勢の攻撃を度々受けた。永禄3年(1560年)8月17日、前日から押し寄せた大友勢を吉原の里城で迎え撃った尚持は、敗走する敵を追った。途中、死人を装い倒れ伏していた兵に左の足くるぶしを切り落とされ、太刀を杖に許斐城の半ばまで行ったが、次第に弱りそこで死んだ。武勇に並ぶ人がなく惜しまない者はなかったという。宗像記へ
34歳の若さで戦死した尚持は八並村に葬られたが、後の人は尚持の為に山中に祠を建て、今宮殿と崇めた。その後天正9年になって嫡子貞保が上八村今居原宅の裏手に移している。今宮社へ
又、父占部尚安は、尚持の死後まもなく建興院を、永禄9年には隣船庵を我が子追悼の為に建てた。