正氏の後室と菊姫
大宮司正氏が山田村に隠居した。正氏は大内義隆の意向に従い、大宮司職と領主の地位を合わせて甥の氏男に譲り、氏男を自らの娘菊姫の養子とした。菊姫の夫氏男は山口に出向して大内義隆の側に仕えた為、残された菊姫は母とともに山田村で静かに暮らしていた。
国丸の話:
亡くなった氏男には三歳になる国丸がいたという話がある。国丸は吉田飛騨守尚時が預かり、領地である鞍手郡吉川に隠匿していたが、陶隆房より 再三殺害要請が来る。占部貞安と許斐氏鏡は、この命令に到底納得できず、国丸の乳母と示し合せ夜中密かに脱出して長門に渡海したという。
これは宗像系図に書かれてある内容だが、宗像側に残る資料には不明な点が多い。国丸の事は陶方はもちろん宗像家中の者も知らないことだというから、当たり前といえばそれまでだ。
ただ、国丸は後に宗像氏隆を名乗り、次の代で萩に移ったが十一代目までの系図が現存しているという。 |
天文20年(1551年)の秋、菊姫の元に悲報が届く。陶隆房(晴賢)の謀反により、大内義隆が自害し、夫氏男が殉死したのだ。菊姫は18歳。15歳で父を失い、氏男と婚姻。山口と宗像で離ればなれとなって、夫婦という情も今だ湧かないうちに未亡人になってしまった。もちろん、跡継ぎも産んではいない(国丸説あり)。今まで頼りとしてきた大内家も、宗像家も当主を失って、家中大騒ぎである。
そんな中、菊姫母娘は夫の父氏続を頼りとするしかない。義父氏続と実父正氏は、かつて大宮司の地位をめぐって争った経緯があり、菊姫母娘にとって必ずしも頼もしい味方とはいえなかったが、夫氏男の父であり、大宮司経験者でもある。氏続には側室の子千代松丸がいたので、その子を菊姫夫婦の養子とし、後を継がせる話が出ていた。
陶隆房の動き
一方、陶隆房は、逆賊の汚名をはらし、大内家の覇権を引き継ごうと動いていた。大内氏とともに筑前各所を転戦した陶隆房は筑前の事情に詳しく、代々大内氏方であった宗像を押さえることの重要性を熟知していたに違いない。天文14年(1545年)宗像正氏(=黒川隆尚)の側室に送った姪が鍋寿丸を生んだことは、隆房にとって大きな利をもたらした。7歳の鍋寿丸に自らの腹心を従わせ、宗像家の相続人として送り込むことにより北部九州の押さえとする心づもりであった。
宗像氏男(黒川隆像)が大内義隆とともに亡くなったのが9月1日。鍋寿丸が宗像へ強行入部したのは12日。この電光石火の対応は、混乱する宗像家中に他の後継者を立てる時間を与えまいとするものだった。
しかし、宗像旧臣の中では、当主を死に追い込んだ隆房に対する反発も根強く、鍋寿丸を容易には受け入れない。強行なのだから氏続方の家臣は黙ってはおれない。はたして吉田佐渡入道宗栄・同内蔵丞等は鍋寿丸を初め取り巻きの寺内治部やその一派を討とうと話し合うが、それが露見し陶方の家臣に討ち取られてしまった。問答無用の鍋寿丸方の態度に氏続は恐れを無し、行方をくらました。氏続の妻弁の前も千代松とともに姿を隠す。
陶隆房は、筑前に兵を送り反対勢力の制圧にかかっていた。大内義隆側だった筑前守護杉興連も亡くなった。今や宗像家の家臣達も、大勢を見極めるまで動くことができないでいた。鍋寿丸の周りでは菊姫母娘をどう処遇すべきかが論議され始める。旧臣達は、鍋寿丸擁立に賛成であれ反対であれ、元主君の妻子を殺害する話には到底同意できない。しかし、押し迫る陶方の力を恐れ、或る者は大島に退避し、ある者は自らの在所に籠った。
菊姫母娘は山田村の館に取り残された。しかし、母娘二人で今や何ができようか。女ばかりの館に刺客をさしむけるとは当人達は勿論、家臣達もまさかとの思いがあったのかもしれない。だが、天文21年(1552年)3月菊姫と3人の侍女は切り殺され、母と花尾の局は自害した。
同年9月、陶隆房は大友義鎮の腹違いの弟大友晴英を山口に迎え、大内家を継がせた。 大内家の当主を自ら立てることで忠義な家臣としての体面を保った陶隆房は、盤石な基盤を築く為、手を緩めない。天文22年(1553年)3月24日、隠れていた宗像氏続の子、千代松を見つけ出し、鞍手郡沼口まで追い詰めて母とともに殺害し、12月には彦山に逃れていた宗像氏続を討ち果たした。
母娘の恨と憤り
天文22年(1553年)三月十八日、それは静かに始まった。菊姫母娘を殺害した嶺玄蕃は鞍手郡蒲生田の観音に詣でた帰り、突然死する。その後玄蕃の妻子兄弟数人が死んでしまった。共に殺害に関わった野中勘解由はこれを聞いて大いに恐れ、祈祷などするがある夜後室と花尾局が夢に現れてその憤りを述べ勘解由を激しく責めたという。その後関係者が次々と変死する。祟りを恐れた鍋寿丸側の人々は、恐れをなしてさまざまに祈り祭って祟りを免れようとし、天文23年11月に増福院を立て菊姫母娘の霊の菩提所とした。
菊姫の母の思いはなんだろう。もちろん自分たち母娘をここへ追い込んだ時代や運命に対する恨みはあったろう。しかし、家臣の裏切りほど悔しく許せないものはない。史料が正しいとすれば、母娘に手をかけたのは宗像家の家臣達である。嶺家は宗像家の庶子流であり、又、野中勘解由は鞍手郡内の宗像領だった剣岳城の城代を務め、その後には腰山城の城主であった。陶隆房は自らの直臣をもって母娘を殺さず、宗像家の家臣にそれを命じた。家中のある者は追い落とされ、ある者はへつらい、ある者は恐れて息を殺す。いずれにしても、圧倒的な数の兵をもって大内義隆を追い詰めた陶隆房の力の前になすすべもない。母娘殺害に加担するなどというひどい裏切りは勿論だが、命がけで両者を護ろうとした家臣がいなかったというのもさびしく悔しい話である。娘はまだ若く、複雑なことなど何もわからない。不幸な娘を思えば悔しさが憤りとなる。
更に言えば、正室の自分が女子一人しか産めなかったのに対して、側室が男子を生んだことに対しての悔しさもあったろう。姪を夫の側室に置いた陶隆房の下心がはっきりと見えているのに、自分には男の子がない以上、それを阻むこともできない。夫の子であり、長男である事実はどうすることもできないのだ。後に祟りは鍋寿丸の家族に及ぶ。永禄2年(1556年)には、氏貞(鍋寿丸)の妹が突然発狂した。驚いた氏貞は田地二町などを増福院に寄付している。
事件の真実
さて、この一連の事件は祟りに見せかけた毛利氏の計略であったという話を聞いた。陶隆房の暴挙によって鍋寿丸が当主となることは決定づけられた。一方、毛利元就が密かに、宗像家中の陶隆房に屈することのできない家臣達をまとめ、時に備えようと動いていたとしても不思議はない。鍋寿丸の周りから陶方につく者たちを抹殺するには都合のいい怨霊話である。十分ありえることではないだろうか。しかし、氏貞の妹が精神に異常をきたしたことは、否定できない事実である。実際山伏などを頼んで加持祈祷など行った事実があるからである。事件の何割が怨霊の祟りで、何割が策略だったのか、すべては闇の中である。