宗像氏貞をめぐる家督争い

≪福岡県地理全誌 宗像正氏夫人宅址より≫
増福院の南一町外園というところに宗像正氏夫人の邸宅址がある。大宮司正氏の別館だった地である。両夫人の殺害されたのはここである。今は畑となっているが、前庭の池の形は今もなお残っている。ここより南一町に井上という所、小道の傍らに方三尺はあるかと 思われる古井戸がある。(井上の名もこれから起こったという)夫人宅の用水であるという。

氏貞の宗像入城

大宮司正氏は大内家に属して、山口に出勤していたが、深川・黒川両庄を賜り、黒川に屋敷を構えて居住し黒川氏を名乗った。この間に陶尾張守晴賢の姪を娶り二人の子が生まれる。兄は鍋寿丸といい、その次は女子であった。
一方、正氏の本妻は宗像の田島(通説は山田村)にいた。女子一人を生んで名は菊姫といった。正氏は家族氏続の嫡子権頭(ごんのかみ)氏光を養子婿として菊姫に娶わせて家督を譲り、隠居して山田に住んだ。天文16年七月48歳にして正氏が病死した。婿養子の氏光は名を改めて氏雄(男)と号した。氏男も又大内氏に従い周防に出勤したが、天文20年辛亥九月陶尾張守が主君大内義隆に反逆。義隆は乱を避けて長門の深川大寧寺に落ち延びたがそこで自害した。その場で氏男も敵を防いでいたが力及ばず、義隆を慕って跡を追う。その氏男の跡を敵が追いかけ、ついに氷ノ上というところで戦死した。生年33歳であった。

宗像家中では氏男が突然に死んだことですぐに後継者を決めなければならなくなっていた。 陶尾張守は、正氏が黒川でもうけた陶の姪の生んだ子鍋寿丸(後の宗像氏貞)に家督を継がせ大宮司にしようとして宗像に送り込む。鍋寿丸は天文20年九月十二日宗像へ強行入部し白山の城に入った。時に7歳。しかし宗像家臣達は納得せず、

『鍋寿殿は正氏の子といっても本妻の子でない。氏男の弟千代松殿がいるではないか。これを氏男の養子として家督にするべきだ。しかし、当年3歳の幼児であるから先ず菊姫に一族の内、然るべき人物を婿にとって社職を継がせるべきである。鍋寿殿を下し参らせるにあたり、その事を一応家人へ知らせるべきであるのに知らせもせず、強引に白山に入城させたことは陶殿もまともではない。鍋寿殿の家臣寺内治部丞が我意のままに振舞う故のことである。』
と評定し、鍋寿丸を立てようとはしなかった。又千代松の父、前大宮司氏続は人々が自分の末子千代松を立てようとしていることを知って喜びその議に同意した。一方陶を恐れて鍋寿丸を立てようと言うものも多くいて、家中二つに分かれて争うこととなる。

正氏の後室及び菊姫暗殺

≪福岡県地理全誌 宗像正氏夫人宅址より≫
さて天文21年壬子三月二十三日の夜野中勘解由・嶺玄蕃は山田村の後室宅へ行き、先ず菊姫の居室に忍び入る。折しも菊姫は今夜の月を拝まんとして行水し、髪を洗って部屋の外近くに出ていたのを切り殺した。18歳であったという。二人はそれから後室の居られる奥の間に走りゆき後室を殺そうとするがさすがにその様相に恐れを抱き、しばしためらう。後室は二人の者に白眼をむき「汝ら咎(とが)なき主人を殺すこと、この恨み子孫にまで尽きず。我は女なれども汝らの手にはかからぬ。」と言って守刀を抜いて自害した。そのはげしい有様は見る人も恐ろしくすさまじい。後室に仕えていた小少将・三日月・小夜という三人の女房も泣き悲しみ二人に取り付き拳を持って打つのを三人共に皆刺し殺し,花尾と言う局の女房は後室の刀を取って自害した。かくて母子の死骸を一つにまとめ邸宅の後ろの山の岸の下に穴を掘り一緒に埋めた。その時死んだ女房四人も傍らに埋める。

祟り

翌天文二十二年癸丑三月十八日、嶺玄蕃は鞍手郡蒲生田の観音に詣でた帰り、女二人がにわかに出てきた。見ればかの後室と花尾局で会ったが、すぐに消えて見えなくなった。玄蕃は手足が震え漸く帰りついたが、苦しげな息をつき、胸が刀で刺し通されるように痛むと叫びにわかに死んだ。これは後室の祟りの初めであった。その後玄蕃の妻子兄弟数人が同時に病気にかかり、玄蕃と同様になったが同月二十三日までに皆死んでしまった。野中勘解由はこれを聞いて大いに恐れ、祈祷などするがある夜後室と花尾局が夢に現れてその憤りを述べ勘解由を激しく責めた。夢覚めてみれば大汗をかき、体も萎えて翌日病に犯されて死んだ。その後7日の内に家の者が急な病で七人亡くなる。その後皆の恐れはなはだしかった。

氏貞およびその母も恐れをなしてさまざまに祈り祭って祟りを免れようとする。永禄2年己未の春、氏貞の妹は13歳になったがにわかに狂気の病に侵されて「我は正氏の妻なり」と言って目を怒らせ気色恐ろしく母を責め立て自分と娘を殺したことを怒り恨んで母ののどに食い付いたのを傍らにいた者達が大勢立ち寄って引き離す。その外後室に仇 なした家人共に今日恨みを晴らそうと怒り責め立てる。果たしてその日多くが突然死した。氏貞の妹は漸く狂病が癒えた。(氏貞の妹は色という。後に立花鑑連の妻となる)氏貞の母ののどの傷は癒えたが、後に他の病気にかかって死んだ。

後室を殺した評議に加わった家人達は追々皆急病にかかって死んだ。氏貞は恐れて田島村に社を立て、後室の霊を氏八幡と号して祭った。又増福院に後室母子の為、祭田を寄付して香花を備える。しかし仇となった者の子孫までその怨霊の祟りは止むことがなかった。故に氏貞没後、後室は六体の地蔵を安置した。

花の尾の局と口寄せ「宗像記追考より」

花の尾の局はよく気の高ぶる人であったが、死後は悪霊となられ、荒れたまうこと甚だしく、弓にかけて口よせに頼んで問うてみようということになった。稲元の大御子を呼んで口寄せをしたところ、乗り移られて、御恨みの数々を口走る。その後は毎年恒例になって、この大御子を呼んで執行する様になった。

この大御子はその容貌、歳などかの花の尾の局に瓜二つである。よく似ているので、御霊がお気に召されたのだと人々は言い合った。その後人々が言うには山田にたくさんいる御子を差し置いて、稲元より呼び迎えるのはどうかということで、山田の御子に恒例の弓を打たせたところ、乗り移られなかった。

そうならばと、又稲元の御子を召してみたところ、乗り移られたので、これは疑うところなくかの局に似ているということで、御霊の思いに叶ったのだと人々は言い合った。この大御子を伊藤上と時の人々は称した。稲元村の内中浦という所の彦兵衛の女房で、その子を伊藤みこという。須恵村の利右衛門の女房となって須恵村小治郎林にいた。

上記では正氏の後室と菊姫を殺したのは、野中勘解由・嶺玄蕃である。これは、陶隆房が宗像家臣石松又兵衛尚季に命じて二人を遣わしたのだという。一説には氏貞の母に山田の後室を讒言する者がいてそれを信じ、自分たち母子に害が及ぶのを恐れて石松に言い付け、野中・嶺をして殺そうとしたともいう。又一説には正氏の後室及び菊姫を殺したのは石松又兵衛尚季であるという。これは宗像の社人及び里民の伝承であり、又「宗像記追考」の説でもある。しかし石松氏の子孫代々伝わるところ、及び自叙の説によれば石松尚季ではなく、後室母子を殺したのは野中・嶺両人であるという。石松又兵衛は永禄3年名を但馬守と改め、氏貞死去の後には剃髪して可久といった。その子孫はいまだに多いという。

山田の局の出生についてはわからない。一人娘菊姫の婿が氏男ということになっているが、『古本九州軍記』には氏男の妻は遠賀郡麻生鑑益の娘で女子一人を生み、氏男亡き後山田の館に移り住んだ。大友氏族の内から然るべき男子を婿に取り山田に城を構えて氏貞を追い出さんとたくらんだとある。これによれば山田の局は正氏ではなく氏男の妻で、氏男が山田の局の娘菊姫の婿であった説とは食い違う。

更に氏貞がたびたび石松但馬守らと後室母子殺しの内談をしているのを耳にした宗像重臣石松伊賀守・同大炊助・許斐安芸守・吉田土佐守・同河内守・同右馬助・占部下総守・小樋対馬守・深田・晴気・神屋・大和らは得心しかねたが氏貞を恐れて皆自分の在所に引き、或いは大島に渡ったという。

氏続及び千代松暗殺

≪宗像記追考より≫

氏続方の吉田佐渡入道宗栄・同内蔵丞等は鍋寿丸を初め寺内治部やその一派を討とうと話し合うが、それを知った寺内平三が談合の座に押し入って一味を討ち取った。以来、寺内の用心も益々厳しくなり、氏続方の人々は、沖にも出ず、磯にも着けずにさ迷う船のごとくになって、一人二人、或いは二人三人が寄り合ってささやくばかりとなった。

氏続は今は願い叶わずと見切り、身の危険を知って身を隠す。一方氏続を逃した寺内は行方を探すがやがて彦山(英彦山)に逃れたことを知った。しかし、彦山は他国であり、又清浄決戒の霊山であり力の及ぶ場所ではない。かといって放置するには先行き恐ろしくどうしたものか考えあぐねていた。ところが、防州の陶に報告すると意外にも怒って討ち取れと下知される。寺内は下知に従い追討に向かうが寺内と在所の人々との間で話がまとまらず事は思うように進まなかった。

そこに現れたのが氏続の弟土橋越前守氏康である。氏康はいずれ難が親族の自分にも及んでくることを恐れ、氏続を亡き者にすることで自分に二心ないことを示そうと、氏続追討を申し出た。氏康はひそかに彦山に向かい、玉屋谷杉坊に氏続が居ることを聞き出し坊に押し寄せた。坊の主人は裏戸口より氏続を逃がすが、あらかじめ坊の様子を聞いていた追手は裏戸口にも人を回していた。何も知らず戸口を出て大竹藪に逃れた氏続はそこで討ち取られた。(天文21年三月一日という、又寺内尚秀宛ての文書によれば天文23年であるという)

後に残された千代松の母弁の前は一人逃げ去った氏続にあきれながらも、千代松を連れ鞍手の沼口に身を隠していた。しかし、今は三歳といっても千代松を生かしておけばいずれ災いとなるに違いないと思った人々は、討手を差し向ける。山口村で逃げる親子に追いついた討手は千代松を母から奪おうとするが、我が子を渡すまいと必死で抵抗する母弁の前に手こずりついに母子共に殺害した。討手はその場所に二人の亡骸を埋めて印に松を植えたという。

(左写真)円通院山門 

(下写真)弁の前と千代松の墓

千代松母子は後に後室の霊の祟りが荒れ狂ったときに、千代松母子の霊も神に祀ろうということになり、山口村のうつれ木の畑というところに祠を建て今宮殿と崇めた。その後山口村に寺を建て氏績と千代松の寺とし追福追善した。これを圓通院という。 氏貞が亡くなった後氏貞の後室は今宮殿に供養料を寄付している。

土橋越前守氏康

≪宗像記追考より≫ 氏続を殺害した土橋越前守氏康(氏続の甥とも弟も言われる)は「当家忠功の人」との評価を受けて、氏続の旧領五十町を賜り、本領ともに七十五町を領した。奉行人に列座し、諸公事を裁判して威勢を振るう。

永禄4年豊後勢が赤間に押し寄せた時も一番に討ち出て働きも殊勝なので氏貞の心もしだいに解けていく。血筋といい、人柄といい、なかなかの存在感であったがある時急に姿が見えなくなった。

どんなに探しても見つからなかったが、三年が過ぎ四年目の春、忽然と姿をあらわしたときには顔はやせ、眼もとがって見るに恐ろしい姿であった。その間何があったかはわからない。

やがては以前の様子にもどったが、両手の指は曲がって伸びなかった。それでも槍などは眼にも留まらぬ神のごとき早業で、壁つたいに横走れば7、8間は飛んでいるかのようである。遠くの事件も居ながらに知り、又明日のことも今日から知っていた。或いは病の吉凶を知り、命の長短を言い当てるに違うことがない。

人々は恐れおののき天狗だと言い、又怒気にふれれば害を受けることを恐れた。腹を立てれば「当家を倒すのも我が意のままだ」とか、「奉行役人を倒すなどさらに容易いことだ」とか言い放つ。しかしこの様子が氏貞の耳にとどくと、このことを見過ごしていれば今に大きな禍になると思い、吉田伊賀守致勝・同河内守守道両人に命じて氏康を討たせた。

永禄8年正月、氏続を殺害してから十三年後のことであった。

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