その1 鎌倉時代と南北朝時代 | |||||||||
北部九州で争乱が続いたのは博多を中心とした対外貿易が巨大な利益をもたらしたからである。玄界灘は古来よりアジア地域への玄関口であった。特に筑前は政府の出先機関である大宰府を含み、外国や国内中央政権との往来が絶えなかった。やがて博多が発展するにつれ、権力者達はますます利権を我が手に得ようと欲望をつのらせる。
宗像は宗像神社(大社)の社領を中心に大宮司宗像氏が治めていたが、寺社領として政権に保護を受けながらも、その位置故に常に侵略の危機にさらされていた。鎌倉時代以来少弐氏(武藤氏)が長らく筑前の守護であったが、宗像家は少弐氏を頼らず幕府の力を頼りとした。後に中国の覇者となった大内氏を頼として一心に付き従い兵を出す。その大内氏が滅亡すると毛利氏を頼に戦乱を生き抜いた。 | |||||||||
占部氏の歴史を理解するためには、主家である宗像氏の動向を知らなければならないが、それとともに北部九州の勢力構造を頭に入れておかなければならない。特に、少弐氏、大友氏、菊池氏等との戦では一族の多くが命を落とし、秀吉によって平定されるまでの長い期間戦に苦しんだ。そこで各氏の九州到着の起源にさかのぼってみることにする。 九州の勢力図平家滅亡後、追討の指揮官源範頼がそのまま残って軍政をしいていた。しかしその乱暴な振る舞いや悪行によって九州から引き上げさせられた。頼朝は側近の御家人を鎮西奉行として大宰府に置いたが、なにぶん遠くて目が届かない。苦慮の結果、三人の守護を派遣する。 | |||||||||
北条氏の九州支配正治元年(1199年)源頼朝が亡くなると、頼朝の妻政子の父北条時政は頼朝の子供達を次々に追い落とし、京都の摂関家より飾りの将軍を迎えて権力を手に入れた。又旧幕府の有力な勢力だった和田氏(1213年 和田合戦)、三浦氏(1247年 宝治合戦)など邪魔者を次々と滅ぼし北条家の独裁体制を整える。 更に承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇を退けた幕府は、上皇方の荘園を没収。幕府は西国の抑えとして京都に六波羅探題を置き、朝廷を監視、又多くが上皇支配下にあった西国の御家人の統率を図った。宗像社領も後鳥羽上皇の支配下にあったが、承久の乱では幕府方に付き、乱後は幕府の荘園に組み入れられた。 その後、時は元寇へと流れ込む。執権北条時宗は瀬戸内海を始め、筑前肥前の沿岸の警備を固める。守護を務めていた少弐資能(すけよし)・大友頼泰を鎮西西方奉行・東方奉行として任命し、指揮をとらせた。豊後の大友氏は香椎、多々良地区を警固したが、この事が大友氏の筑前進出のきっかけとなった。やがて立花山に城を築いて基盤を固めた大友氏と、元々筑前の守護であった少弐氏との覇権争いが宗像家を含む筑前諸将を翻弄することとなる。 さて、元の再来の噂が立つと、北条氏は鎮西探題を立てて一族を送り込み、大友氏・少弐氏を指揮下においた。統率強化の名の下に守護職の多くを北条一族が固め、北条氏とともにやって来た下向組が勢力を伸ばす。少弐氏は筑前・大友氏は豊後、島津氏も薩摩一国の支配に縮小した。この緊急時下、北条氏の配下にあった宗像社の荘園でも年貢の取り立てが厳しさを増し、大宮司氏盛は家臣へ土地や米を与えることができないほどであったという。 弘安4年(1281年)モンゴル軍が再来したが、暴風雨の為に壊滅した。国難が去ってみれば勝ち取った土地があるわけでもなく、戦った者に与える恩賞もない。一方で混乱に乗じてすっかり拡大した北条一族の支配権に不満がつのる。 後醍醐天皇蜂起その後、元寇後の北条氏への不満を背景に後醍醐天皇が幕府転覆を図るが、計画が事前に発覚し隠岐島に流される。しかし元弘3年/正慶2年(1333年)、天皇は隠岐を脱出、倒幕の兵を挙げた。後醍醐天皇が幕府第14代執権北条高時を攻めた時、宗像大宮司氏長は天皇方に加わり、軍功を立てた。九州では北条氏に役を奪われた少弐貞経・大友貞宗が中心となって探題北条英時を攻め滅ぼす。 足利尊氏・新田義貞等に助けられた天皇はついに鎌倉幕府を滅亡させた。 宗像氏長は、宮方として北条氏の残党を追った。建武元年(1334年)には探題北条英時の養子で肥後の守護だった北条高政を豊前の帆柱山城(北九州市八幡西区)に攻め追討した。高政は筑前豊前の北条氏残党を集めて抵抗していたのである。氏長は名を氏範と改めて今度は長州に向かう。 長門まで後退していた幕府方、前探題北条時直の残党を掃討した。 足利尊氏下向と宗像家天皇による「建武の新政」が始まってわずか二年後の建武2年(1335年)、足利尊氏が政権に背いて南北朝動乱の時代に突入する。 足利軍は箱根で新田義貞を破ったが京都で破れ、海路で西下し九州に逃れた。西下する一行を少弐頼尚が長門の赤間関(下関市)で出迎え宗像社に案内したという。 後醍醐天皇によって社務職を始め所領を安堵されていた宗像家にとって、落ち延びて来た尊氏をどう扱うかについてはそう簡単に決められることではなかった。果たして宗像一族家臣達は、この事態に馳せ参じて評議を行う。尊氏は舎弟直義を始めその数300に過ぎず、即刻尊氏の宿舎を攻めて討ち取るべしとの意見もあった。しかし、氏範(氏長)は是を制して家臣吉田致俊を使いに立て、将軍に味方することを申し送った。こうして尊氏は氏範の居城である白山城に籠り、翌日足利軍は菊池武敏率いる宮方の軍勢が陣を張る多々良浜へと向かう。 | |||||||||
多々良浜の合戦 | |||||||||
≪肥後菊池氏≫ここで登場してくる宮方の菊池氏について少し述べておこう。菊池氏は、肥後国菊池郡を本拠とする郡司であり、一族は多くの大宰府府官を輩出した。承久の変では、後鳥羽上皇方について鎌倉幕府軍と戦った。その後、蒙古襲来の時には菊池武房が弟の赤星三郎有隆や菊池八郎康成らを引き連れて出陣し功をたてたが、例にもれず恩賞の件でつまづき北条氏への不満をつのらせた。 後醍醐天皇により建武の新政が始まると菊池武重は京に上って後醍醐天皇に近侍し、肥後守に任じられた。建武2年(1335年)足利尊氏が挙兵した時には、討伐軍に加わり遠征したが、箱根で足利軍に破れて京に戻った。 一方、筑前・豊前・筑後の守護少弐貞経は、足利尊氏に味方し、子の頼尚を派遣した。頼尚が長門の赤間関(下関市)で尊氏を出迎えていた頃、武重の留守を守っていた弟の菊池武敏が手薄になった太宰府の少弐貞経を攻めた。貞経を有智山城で自害させた武敏は、更に兵を進め博多を占領、北上 して多々良浜に陣を構え足利軍を迎え撃つ。 建武3年(1336年)多々良浜の合戦に於いて、大宮司氏範(氏長)は、嫡男氏正・次男氏俊、許斐、石松、占部、大和、吉田等を伴い搦手(からめて)の将を務めた。氏範はこの軍功の賞として筑前国楠橋庄を宛がわれている。始め尊氏の側に付く将は少なく、宮方の優勢は明らかであった。しかし蓋を開けてみれば菊池氏以外の軍勢はあてにならず、多くの者が寝返った結果、尊氏方の勝利となった。 占部宗安とその子安治もこの時参戦し、宗安は城左馬助武治を、又安治は赤星右馬助を討ったという。赤星というのは菊池武房の弟三郎有隆が名乗った姓で肥後国菊池郡赤星に由来している。この戦で菊池一族の多くが命を落した。 この勝利の後、尊氏は上洛するが、宗像氏範は嫡子氏正に社務職を譲り、次男氏俊とともに供奉した。後醍醐天皇の尊氏・直義兄弟誅罰の綸旨(りんじ)を賜るも、これに従わず、尊氏方に付いて京都各所を転戦した。 九州の諸将がいまだ迷いの中にいる時、大宮司氏範が尊氏支持をいち早く決めたことは、一族郎党に繁栄をもたらした。大勢が味方する中で加勢しても影は薄い。追い詰められた尊氏に活路を与えたことは大きな功績であった。宗像家中の多くの者が恩賞に預かった。占部氏としても例外ではない。 又、氏範は尊氏に加勢し京都に転戦、その軍忠により、尊氏が天下統一した後に筑前国糟屋郡と日向国に領知を賜った。氏範は社務職にありながら、武役を勤めて尊氏に従ったので、社領武領を格別に賜ったが、この時から家臣達も社家と武家の両輪に分かれることとなる。余談であるが、この氏範(始め氏長)という人は歌人でも知られていたらしい。宗像軍記によれば、博学多才で詩を好み、歌を詠んだとある。氏長の読んだ歌は収集されていたが、永禄年中の回禄によれば宗像の旧記神宝とともに焼失してほとんど残っていないという。 | |||||||||
南北朝時代突入
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京に上った尊氏は足利幕府を開いたが、やがて後醍醐天皇が吉野に南朝を立て、南北朝時代となる。 後醍醐天皇は各地に皇子を派遣して政権の安定を図るが、九州には幼い懐良親王が征西大将軍に任命されて下向してくる。しかし、九州には尊氏が鎮西管領(九州探題)として残していった一色範氏がおり、必然幕府方と宮方に分かれて争うこととなる。菊池氏は懐良親王を奉じて宮方に付き、常に幕府方であった宗像勢と激しい戦を繰り返すこととなった。やがて幕府方は足利尊氏と直義兄弟の間に争いが生じ、直義の養子(実は尊氏の庶子)直冬が尊氏方の追討軍に追われて九州に逃げてくると、九州の争いは益々複雑化した。九州探題一色範氏、宗像氏、麻生氏などは幕府方であったが少弐氏は兄弟で分かれた。少弐頼尚は当初、将軍尊氏より直冬の討伐命令を受けた一色氏と協調して直冬と戦っていたが、一色氏と相容れず直冬側につき自陣営に迎える。 やがて父直義の急死で力を失った直冬は大宰府を追われて長門に逃げ南朝方につく。押し立てていた直冬もいなくなり、一色氏に追い詰められた少弐頼尚は宮方の菊池武光を頼り大宰府南の針摺原(はりすりばる)で一色軍を破る(文和2年/1353年)。懐良親王は菊池、少弐らを率いて肥前・豊後を転戦、大友氏泰を降伏させ、ついで博多を攻めて、一色範氏らを長門に駆逐した。 少弐頼尚と一色氏が対立している間、宗像家は難しい立場に立たされていたに違いない。かつて少弐頼尚とともに足利尊氏を九州に迎えた氏範は次男氏俊の妻に頼尚の娘を迎えていた。氏俊は次男であったが、長兄氏正に子がなかったために文和4年(1355年)氏俊が氏正の養子として本家を継いだ。 | |||||||||
筑後川の戦い(大保原合戦)さて、少弐氏は宮方につき菊池氏と結んで一色氏を長門へ追い払うと、もとの幕府方に転じ、菊池武光を筑後・筑前方面に誘い出し、大友氏と組んで挟み撃ちにしようとした。これを察した武光は懐良親王を奉じて筑後川の南岸、高良山に陣を布いた。時に正平14年/延文4年(1359年)7月から8月、宝満川流域の筑後平野を舞台に、約4万人の南軍(懐良親王・菊池武光軍)と、約6万人の北軍(少弐・大友連合軍)とが、一大決戦を展開した。この時宗像氏俊は少弐頼尚とともに出陣、その軍忠に対して、将軍義詮が感状を下している。しかし結果は南軍の勝利に終わり、両軍合わせて約2万5千人ともいわれる戦死傷者を出した。 | |||||||||
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長者原の合戦菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府へ進出し、正平16年/康安元年(1361年)大宰府を征西府として九州宮方の本拠とした。やがて東上を目指し始めた南軍に慌てた室町幕府は斯波(しば)氏経を九州に派遣し、大友氏と筑前まで兵をすすめたが、正平17年/康安2年・貞治元年(1362年9月改元)10月長者原の合戦で菊池武光を中心とする南朝軍に敗れた。 以後、十数年にわたって九州宮方は優勢となる。 宗像系図には「康安元年菊池武光率いる大軍が宗像に押し寄せ白山城を囲んだが、宗像氏俊は城を堅く守り、ついに敵を退けたとある。」又占部氏の系図にも、「菊池の先駈秋月三郎、原田大蔵太輔と筑前の長者原で戦い、大いに功あり」とある。負けた記録は敢て残さないのが系図である。氏俊が白山城を守った一方で、一族の守る蔦ヶ岳城は落とされ、城主は首をはねられたとの記述が北肥戦誌に残っている。又、占部が功績を立てたという長者原の戦いでは、斯波(しば)氏経の配下にいた少弐氏をはじめ松浦、宗像大宮司一族400余名が討たれて大敗を喫したのであった。 この後貞治5年(1366年)、大宮司氏俊は12年務めた大宮司の職を退き、弟の氏名に社務職を譲った。後に氏名は菊池と通じて宮方へ属した。宮方の勢いに抗しきれなかったのだろう。応安4年(1371年)、幕府は今川了俊を九州探題に任じて巻き返しを図った。それに応じて、応安5年(1372年)前大宮司氏俊は氏名を押さえて再び大宮司となった。了俊が大内義弘を従えて下向すると、氏俊は大内・今川両者に従う。宗像系図には「水魚の如く随身した」とある。宮方優勢の情勢下で耐えに耐えていたのだろう。氏俊は次男氏重の妻に大内弘世の娘、三男氏忠の妻に大友氏時の娘を迎え安泰を計っている。後の永和元年(1375年)、少弐忠資蜂起の時には将軍義満の命により大友氏時と組んで出陣した。氏俊の武功は父兄を超えたと系図にある。 さて、今川氏の登場により、菊池武光は嫡男の武政とともに対抗したがじりじりと追い詰められ、応安5年/文中元年(1372年)8月ついに大宰府を失う。南朝軍は筑後・高良山(こうらさん)に撤退して陣を張って抵抗したが、応安6年/文中2年(1373年)主力の菊池武光が死去する。応安7年(1374年)3月将軍義満が武光の跡を継いだ武政追討の為九州へ向かった。この時菊池氏は一時勢力を盛り返し、長門で幕府軍を迎え撃つまでになっていた。しかし、長門から押し返された武政は宗像の城を詰め城として防衛ラインをしいたが抗し切れず城を捨てて征西将軍宮を奉じて筑後に落ち延びた。氏俊はこの時将軍方に従って軍忠有というが、一方で先に大宮司をはずされた宮方の氏名は菊池武政に従い、幕府軍と戦って命を落とした。ほどなく5月には菊池武政が病死する。相次ぐ死によって力を失い菊池軍は肥後に撤退した。 | |||||||||
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南北朝の終焉弘和3年/永徳3年(1383年)には懐良親王がこの世を去った。時は3代将軍足利義満の時代である。重鎮を次々に失いすっかり力を失った南朝に対して、明徳3年/元中9年(1392年)義満は大内義弘をたてて交渉にあたらせ、南北朝統一が実現した。 応永2年(1395年)幕府は九州探題として大きな勢力となっていた今川了俊(いまがわりょうしゅん)を解任。替って渋川満頼を九州探題に任命した。九州探題渋川氏だけでは力不足と考えた義満は周防・長門の守護職大内義弘にその補佐を任じ九州の秩序安定をはかる。 一方宗像家では宗像氏俊の後、嫡男氏頼が跡を継いだ。官軍に属し軍功もあったが、明徳2年(1391年)病により35歳で亡くなった。弟の氏重は兄の養子となり、社務職を始め社領・武領等すべてを譲り受け相続本家となった。その氏重も応永3年(1396年)に38歳でこの世を去る。氏重は相続したときすでに体調が思わしくなかったのだろうか。幼少の嫡男千代松(氏経)に社務職他を譲りそれを補佐した。亡くなる時も遺言を残し、弟氏忠に社務の後見を頼んでいる。 応永5年(1398年)、南北朝統一後も抵抗を続けていた菊池・少弐氏が蜂起すると大内義弘が討伐の命を受けて九州に下向する。氏経は幼少であったが大内氏を助け戦功をたてた。8月には菊池の居城を肥後国八代に攻める。この時少弐忠資は氏経の留守を狙い宗像の西郷に陣を張り、白山城を攻めた。氏経はすぐさま帰還する。大内盛見の応援のおかけで忠資を退けた。数か月にわたって大内軍が九州に滞在する間、この大軍を養うため氏経は筑前西郷および米多比・薦野・薬王寺などの大きな郷数か所を兵糧の為に提供した。後に合戦の軍忠とともに将軍義満より御感の下文を賜っている。 少弐忠資の父頼尚は宗像氏俊と縁戚関係にあって必ずしも対立的ではなかったが、少弐氏は一色氏を始め今川氏など歴代の九州探題と折が悪く、一貫して九州探題や大内方であった宗像氏と敵味方に分かれざるを得なかった。筑前の守護を長く務め、筑前を基盤とする少弐氏にとっては、大宰府を中心とする新参者の九州探題が目障りだったのである。しかし、その少弐氏も、宗像氏等古くからの国人にとっては後からの来客であり、時として横暴な支配者であった。宗像氏にしてみれば、領知や職益をめぐってもめた時、訴え先として九州探題や幕府が大切な存在であったのである。 大内氏と北部九州
宗像系図によれば、宗像氏俊の時、貞和年中(1345-1349)に初めて朝鮮に使者を送り、異国売買の船が久しく往来したという。足利幕府では日明貿易が開始されたのが1401年、日朝貿易はそれより少し前の1399年のことである。幕府が海外交易に乗り出したとき、宗像氏は勿論、大内氏もすでに交易による莫大な富を手にしていた。特に、大内義弘は交易で得た財力を背景として力を伸ばし、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ねていた。弱体化した幕府は、九州を治めるに当たっても大内氏の力を借りざるを得なかった。九州探題の補佐を命じた将軍義満だったが、幕府の強化を目指す義満にとって大内義弘の強大化をそのまま見過ごしておくわけにはいかなかった。ついに幕府は応永6年(1399年)大内義弘を反乱に追い込み討伐する。(応永の乱) 占部氏系伝「占部氏系図」によれば占部弘安は応永2年(1395年)大内義弘にしたがって和泉州堺で戦死した。これは内容からして応永6年(1399年)の応永の乱のことで年号の誤りであろう。和泉堺は当時畿内最大の貿易港であり、大内義弘の手中にあった。義弘は堺で籠城し、幕府軍三万余兵を迎え撃った。系図には弘安は「畠山満家と戦って死んだ」と書いてあるが、大内義弘近くにいて戦ったことがわかる。義弘は最後に畠山軍と戦い畠山満家に討たれているからである。弘安20歳であった。弟の忠宗もこの激戦で命を落した。大内義弘は死に、将軍義満は大内氏の領国石見・豊前・和泉・紀伊を没収したものの周防・長門は義弘の弟弘茂に与えて大内家を存続させた。弘茂はもともと幕府に反旗を翻すことには反対であった。兄に従い共に籠城したが、義弘が討たれた後は幕府軍に降り、家を継いだ。幕府は弘茂に命じ、義弘の意志に従って自国を頑なに守る兄盛見を攻めさせた。初め幕府は弘茂に後を継がせようとしていたが、応永8年(1401年)弘茂が長府で盛見に討たれると、結局盛見を当主として認め、豊前・筑前両国の守護職をも与えた。更に、幕府は盛見に探題渋川満直の補佐を依頼した。幕府は明との貿易を再開、大内氏の力を背景に九州探題を中心とした勘合貿易によって大いに興隆する。 当時貿易船一隻から上がる利益は一万貫(現在の約一億円)以上と言われ、明で一斤二百五十文の生糸を 日本に運んでくると、二十倍の五貫門、又一駄十貫門の銅が中国で生糸に替えれば五倍の五十貫に、一本八百匁(もんめ)、一貫文の刀が現地では五倍の四・五貫文で取引されたという。「筑前戦国争乱 吉永正春氏」 一方元々筑前を支配下に置いていた少弐氏は、黙ってはいられない。大友氏、菊池氏などと組んで探題渋川氏・大内氏に対し抵抗を続けた。少弐氏が幾度も滅亡の際まで追い詰められながら盛り返すことが出来たのも、交易による蓄財があったからだともいわれる。大友氏も又元寇以来博多西部に勢力を維持し博多の利権を常にねらっていた。又菊池氏は南北朝統一後、九州探題今川了俊と和睦して肥後へと戻っていたが、その後も幕府に対して反抗的な態度を取り続けていた。南北朝時代が終わっても、争乱はまだまだ続く。 | |||||||||
明徳3年(1392年)宗像氏経が社務職を継いだ時、まだ幼かった氏経を父氏重は三年間補佐した。しかし氏重は応永3年(1396年)に38歳でこの世を去った。幼い氏経を心配した父は、亡くなる前に弟の氏忠に後見を依頼した。ところが、氏忠は本家に対し不忠の志を抱き、応永6年(1399年)には、宗像家家臣達が評議の末、氏忠を追討しようということになった。これを知った氏忠は誓紙数枚を以て陳謝したので氏経は叔父を許し社務職を譲ったという。この時期は丁度大内義弘が幕府によって討伐される頃である。 大内義弘が追討を受ける前年には、九州に遠征した義弘の軍を氏経が援助していた。又、大内氏側にいた宗像氏は必然少弐氏・菊池氏と敵対関係にあったが、大内氏の後ろ盾なくしてこれらの勢力と対抗する力もなかった。幕府と大内氏が頼みの宗像氏であるのに、大内家と幕府との関係が急激に悪化していく。公方側に付くか大内義弘方に付くかで宗像氏も決断を迫られた。 こうした情勢不安の時に氏忠を押さえるには氏経は幼すぎた。氏忠の無道はとどまらず、氏経はこの趣旨を公方家に訴えたという。応永10年(1403年)7月29日義満公の命を被り氏忠を押籠、嫡男長松丸を立て、幼年ではあったが社務職を譲った。しかし氏忠は氏経を討って本家を奪おうとする。氏経は敵対せず一旦中国へ落ち延び大内家を頼った。この時大内家の新当主は盛見に定まっていたが、氏経は盛見の許しを得て再び京都にこの趣きを言上する。この間宗像家臣はことごとく防州を慕い氏経に随行したという。 応永12年(1405年)12月8日氏経は公方の命を受けて還補、この時九州探題渋川左近将監満頼も、氏経に味方して氏忠を攻めたが、氏忠は一戦に及ばずに降参する。応永17年(1410年)氏経に男子が生まれず舎弟氏顕(後に氏信)が養子になり、社務職及び本家を譲った。 | |||||||||
占部氏系伝占部弘安は大内義弘に従い和泉州堺で弟と共に戦死した。この時、大内義弘は幕府に対する反乱軍として追討される側であった。一方、主君大宮司宗像氏経は、この時九州にいた大内義弘の残党を退治したとの記録が大宮司系譜に残っている。君主と家臣、一見矛盾する動きであるが、大内家に対する義理立てと、将軍家に対する忠節との板挟みに苦慮した結果であろうか。大内義弘が死んでしまった今、幕府より残党追討の命が下されれば従うしかなかったか。しかしそのおかげで宗像家は、翌年足利義満から宗像の宮永、室木などを料所として預けられている。 この後、占部氏家系図には後を継いだ大内盛見とともに戦った記録はない。弘安が死んだ時、嫡子孫太郎(後に安延)はまだ幼児だった。 占部安延は大内義弘の子、持世・持盛などと同じ頃に生まれている。安延の子盛延の盛の字は大内持盛の一字であることが記載してある。又、時の大宮司宗像氏信(氏顕)は嫡男氏郷に大内持盛の娘を迎えている。大内義弘の死後も、安延一家は宗像家とともに義弘の子等に従っていたと思われる。 大内義弘の跡は嫡子がまだ幼かった為に弟の盛見が継いだ。盛見は弟弘茂と跡継ぎの座を争って勝ち取ったが、盛見の死後再びその跡をめぐり義弘の子持世と持盛の兄弟で争いとなる。結局持盛は持世に討ち果たされた。その時占部安延一家がどちら側にいたか記録は無い。安延の嫡子盛延は永亨八年(1436年)防州山口で亡くなった。22歳の若さであった。「害にあった」と系図にあるが、何があったのだろうか。 その後、安延の次男弘尚は大内持世に従っていたようである。弘尚は嘉吉元年(1441年)京都の乱(嘉吉の乱)で大内持世と共に死んだと書かれてある。大内持世は六代将軍義教が酒宴の席で暗殺された時、巻き込まれて深手を負いそれが元で死んだのだった。幕府は首謀者の播磨・備前・美作国守護赤松満祐に討伐軍を差し向け、赤松満祐は領国播磨で切腹している。時の大宮司氏俊は赤松氏討伐に加わり、播磨の陣にあって軍功をたてたという。 同年太宰少弐氏が蜂起し、筑前宰府に陣を張る。遡る永享5年(1433年)、大内持世によって父少弐資嗣を討ち果たされた幼い兄弟二人は、対馬の宗家を頼って逃れていたが、兄は嘉吉元年(1441年)に亡くなり、弟は宗家の後押しで太宰少弐に任ぜられ、教頼と名乗って大宰府に復帰していた。宗像氏俊は陶五郎弘房と示し合せ戦に及ぶが、その時大内教弘に公方方から命が下り、教弘は馳せ参じてこれを討った。少弐氏は嘉吉の変で幕府軍の要請に応じて赤松満祐討伐に出陣しなかった為に追討の命が下されたのである。占部安延は大内教弘に従い少弐氏の有智山城を攻めている。(注:宗像系図も占部系図も少弐嘉頼を攻めたとあるが、嘉頼はこの年の初めに亡くなっており、実際は弟の教頼だったはずである) 寛正元年(1460年)剃髪して宗快と名乗った安延は家督を三男清安に譲る。長男の盛延・次男の弘尚共に若くして他界していたからである。これに対し、清安は固辞したといわれる。自らの一家まで相続をめぐって争いになることを嫌ったのであろうか。清安の弟は出家して僧となっていた。結局清安は安延の強い意志で一旦は家督を相続するが翌年には長男盛延の子弘安に譲ってしまう。弘安は大内教弘の一字を受けていたが、家督を継いで6年後の文正2年(1467年)大内教弘の子政弘に従い摂州に赴き戦死した。応仁の乱である。家督は末の祐安に受け継がれた。
安延は文明2年(1470年)宗像の上八(コウジョウ)村に承福禅寺を建てて出家した息子、月潭和尚を開山とし亡き子等の追福をした。戦で父を早くに亡くし、父の顔も知らずに育った安延。主家の宗像家も、その上の大内家も跡継ぎをめぐって骨肉の争いとなり、家中は混乱し揺れ動いた。大内氏に従い一家は西へ東へと遠征する。愛する子等、孫までも次々に先立った。文明10年(1478年)81歳で生涯の幕を閉じた。 | |||||||||
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