その6 黒田藩のもとで
(宗像氏貞の後室は)秋の夕べ端居におはしまして、
秋は来ぬ露は袂におきそひぬ
なと朽ちはてぬ我身なるらん
風の音、虫の音につけても、昔恋しく御心を砕き給ふ秋の空なりける「宗像記より」

消えた跡継ぎ

宗像氏貞と大友宗麟の養女となって嫁いできた臼杵鑑速の娘との間には娘が三人あったが、跡継ぎがいなかった。(塩寿丸という嫡子がいたが、早世したとされている。)氏貞亡き後本来ならば遺言通り3年の間その死を隠さなければならなかったが、島津氏の北上と秀吉公の下向によってその猶予もなくなった。養子なり、婿養子なりを早急に探さなければならなかった。宗像系図によれば、小早川隆景、毛利輝元に相談の上、天正14年(1586年)に石州の益田越中守元吉(元祥)の次男を養子に迎えている。

《益田氏系図》
元祥─┬広兼──元尭
      │
      └景祥(七内・修理・河内守)
          ↓
       宗像氏貞養子
宗像系図にはこの人物を元尭としているが、益田氏側の記録によれば、景祥のことで、元尭は景祥の甥にあたり年代が当てはまらないから宗像側の誤認であろうか。天正14年には景祥(七内)もまだ元服前の少年であった。

系図には養子を迎えた時期が天正14年とされているが、実は他にも説あって定かではない。 近年の研究には「早世した実子塩寿丸」が実は実子でも死んだのでもなく、この益田七内(景祥)の事であるとする説もある。ただ、太閤秀吉の国分の時点では、宗像氏の相続人を才鶴としており、益田七内(景祥)も塩寿丸も登場しない。結局益田景祥は本家へ戻り宗像家を継がなかったことだけは事実である。

新領国主

宗像大社辺津宮拝殿・本殿

筑前の新国主小早川隆景は、天正16年(1588年)二月、筑前立花城に入城し、名島に城を築いた。宗像社は宗像領内に二百町ほどの社領をもらい、宗像家家臣の内、社家を中心に社職を継いだ。大宮司は空席のままであったが、とりあえず宗像社は存続した。隆景は天正18年(1590年)に宗像第一宮拝殿を寄進し、本殿も修復した。当主の病死に続き秀吉の下向により全てを失った宗像家以下家臣達を不憫に思っていたに違いない。かつて大友氏に対して共に戦った宗像勢である。宗像社の拝殿寄進や本殿修復を手がけたのも、宗像に対する隆景の思いやりであったのであろう。

一方、本領を取り上げられた宗像家はどうなったのか。 天正15年(1587年)6月28日付の朱印状で、秀吉は筑後で宗像才鶴に三百町を引き渡し、与力として召し置くように小早川隆景に申し送っている。この宗像才鶴なる人物は系図に見当たらない。研究者の間では氏貞の後室のことであるとされている。跡継ぎのない宗像家ではあったが、一応小早川隆景の配下に置き、細々とながらとりあえず宗像氏の名だけは存続させた形である。

宗像記追考では氏貞の後室に筑前国夜須郡の内二百町と上筑後の内二百町が宛行われたとなっている。この内、筑後の地には石松尚宗を代官として派遣したが当地に至る途中で病死したとあり、その後筑後の所領をどう管理したのかは不明である。一方筑前夜須郡の所領は天正16年に家臣や寺院に配分された記録が残っている。しかし少ない所領は家臣全てに行渡るはずもなく、ほとんどは他家への士官か、帰農かの道しか残されていなかった。

宗像家の行方

文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(第一次朝鮮出兵)は翌年休戦したが、小早川隆景は朝鮮から戻ると秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子に迎えた。文禄4年(1595年)には家督を譲って隠居し、家臣と共に備後国三原に移った。この事は宗像家にとっても重大な変化をもたらす。この家督相続に伴って検地が実施され領内の石高が定められたが、この時太閤よりの御下知として氏貞後室の所領四百町を召し上げられたのである。宗像記には新たに筑後に三百町を宛行われたが後の関ヶ原合戦後に召し放たれたとする。又宗像記追考では代替え地を丹後国二百町与えられたが辞退したことになっている。

又、秀吉は隠居料として宗像・鞍手・御牧三郡を隆景に与えた。 宗像社はこの時隆景から郡内田島屋敷200町を受けており、その他宗像、鞍手両郡に宗像社領を有していた。この宗像・鞍手両郡の宗像社領も隠居領として隆景に与えられたが、新領国主秀秋は、宗像社に代替領を与えなかった。見るに見かねたか、代わって隆景が河西村の物成百石分を宗像社に与えたが、これでは到底足りない。ついに社家による社領支配も終わりを告げた。(物也=禄高の基礎となる年貢米の収入高「yahoo!辞書より」)

三人の姫

氏貞には3人の娘がいたがその後を追ってみよう。宗像記によれば文禄元年(1592年)、太閤秀吉は朝鮮出兵の為に肥前の名護屋に下ったが、氏貞の姫が美しいのを噂に聞いて、御太姫を名護屋へ召した。秀吉はこの御太姫を宗像の娘であるから「お宗の御方」と呼んで名護屋にいる内はひどく寵愛したが、淀の方を気遣ってか名護屋を発つ時に暇を出したという。これは宗像記に載っている話で、話の虚実は確かめられない。

さて、小早川隆景はかねてより宗像家存続に心を砕いていたらしい。自らの家臣草刈重継と氏貞嫡女を娶せ、宗像家の婿とするよう秀吉に願い出たという話が宗像系図に残っている。草刈重継は隆景の国替えに伴い伊予国から筑前へ下り、宝満城を預けられた。又、那珂・三笠・早良郡の内に所領を与えられ福岡に居住したため福岡姓を名乗ったという。

実は養子候補は草刈氏の他にもいた。前述益田家の次男景祥がそうであった。秀吉は益田景祥を小早川秀秋に仕えさせようとした。もしそれに従えば、宗像後室から召し上げ分の所領を与え、宗像家を相続させたかもしれない。しかし、益田景祥はあくまで隆景に仕えることを希望し、長兄広兼の病死を理由に本国に戻ってしまう。後には毛利輝元に仕えた。

一方、秀秋に仕えるのを拒んだ益田氏に対し、草刈重継は秀吉の命に順じて筑前に残り秀秋に仕え、秀秋より筑後国に所領を宛行われた。更に氏貞の長女を迎えて秀吉から宗像氏の家督相続を許された。これがすなわち氏貞後室が領地召し上げになったということとつながる話らしい。つまり氏貞後室を暫定的に宗像家の相続人としていたが、草刈重継が養子となったため、所領が引き継がれたということのようだ。しかし、宗像系図によれば、重継は社務には就かず、旧来通り旧宗像家の家臣が任にあたった。又、重継は福岡姓を名乗り、宗像姓は名乗らなかったという。宗像の姓を用いたのは重継の子就継で、宗像助次郎といった。その後慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後、重継は嫡子就継とともに小早川秀秋の元を去り、長門国三隅庄の所領に居住したので、筑前・筑後の所領は公領になったという。又就継は宗像姓から草刈姓に戻った。

第二の姫は中国の市川與七郎に嫁いだ。宗像記追考では、長女と次女の婚姻のいきさつと順序が先に述べたものとは大分違う。氏貞後室が長女と三女を連れて市川氏を頼るが、その時市川氏の仲立ちによって長女と草刈家との縁組が成ったという。又、後室は御家人達がお世話をして暮らしていたが、次女からの再三の誘いによって中国に渡ったという。この頃すでに旧家臣も散り散りとなり、氏貞の遺族に関して確かに知った者もごくわずかで、人伝えに聞いた話を書くしかなかったのだろう。その後草刈氏に嫁いだ長女は病で若くして亡くなり、末の姫が後妻となった。

 曹洞宗 松岩山宗生寺/福岡県宗像市大穂
山門:建長5年(1600年)に移設された名島城の搦手門(からめてもん)許斐家の墓:許斐氏備夫妻の墓もあるというから、占部尚持の娘がここに眠っているということだ。氏貞後室の墓小早川隆景公の墓:(筑前国続風土記拾遺巻之三十八には假墓とある)供奉4人と共に眠る。
宗像記には氏貞後室が大穂に暮らしたと書いてあるが、実際大穂の宗生寺には夫人の墓がある。寺のHPによれば「四世桂翁栄昌禅師が、氏貞後室と三人の娘を宗生寺門前の端泉院に迎えた」又「氏貞公の室は、端泉院にひとり尼僧のごとき生涯を送る」と書いてある。 宗生寺は宗像氏の分かれである重臣許斐家が菩提寺としていた寺で、後室の墓はその許斐の重臣達に守られるように並んで建てられている。氏貞後室は娘を頼って長門国三隅に行ったと言われるが没年も不明である。領知に取り離され家臣達も散り散りとなって、消息を知る者もほとんどいなかったのだろう。宗像記追考によれば、後室の実家は大友家の三大将に挙げられる家柄であったが、島津氏との戦いで多くが亡くなり、大友宗麟の政道の乱れによって大友家自体が衰微したため実家を頼ることもできなかったという。許斐家の墓と後室の墓の裏を更に上り詰めると小早川隆景公の墓がある。隆景は隠居先の三原(備後)で亡くなったが遺言により米山寺(広島県三原市)とともにこの寺にも葬られたという。

慶長2年(1597年)六月、小早川隆景が隠居先の三原で亡くなった。隆景が死んだ年の二月には既に2度目の朝鮮出兵が始まっており、小早川秀秋も朝鮮に出兵していた。 こうしてできた空きに秀吉は山中山城守長俊を送り、朝鮮出兵の後方支援を任せた。筑前国の隆景領5万石余りと秀秋の支配下にあった名島などの所領は山中長俊の管理下に置かれた。慶長3年(1598年)に小早川秀秋は帰国するが、越前国に転封されたために、九州の小早川領はそのまま豊臣政権の支配下に置かれ、その直轄領代官として石田三成が任命された。又、その直後浅野長政に筑前直轄領の内糟屋・宗像・鞍手他合わせて9郡の代官を命じて石田三成の負担を軽減しようとした。宗像郡は代官浅野長政の管理下に入る。 

同年夏、秀吉が死去した。石田三成と浅野長政は代官として直轄領年貢の収納と移送等の任の他に、朝鮮へ派遣された軍引き上げの任にもあたった。 慶長4年(1599年)になると小早川秀秋が再び筑前に戻った。秀秋は旧領とともに隆景の隠居領までも治めることとなったが、宗像社への給与はなく宗像社の旧領復活の願いを聞き届けることもなかった。

占部氏系伝

「占部氏系図」によれば、中国や毛利家筋には祖父尚安の頃から貞保一家を見知った者多く、小早川隆景が秀吉の前でしきりに尚安の功をほめたため、即この所領を下されたのだという。一方「宗像記追考」には「これは宗像氏家臣の糧米にするようにと仰せつかったものである」との追筆がある。

原本を見たわけではないのでこの追筆が本人によるものか、後の世の誰かによるものかまったくわからないが、わざわざ書き足していることからして、貞保の瓜生野拝領は後々差障りの多いものになったと見える。何分にも、重臣たちに至るまで所領を失ったのだ。貞保だけ所領を特別にもらえば、その他の人々は心中複雑である。まして、貞保は少し前まで氏貞の怒りをかい隠遁の身であったのだ。使いの大役を果たしたと言っても家中には宗像氏の分家をはじめもっとお偉い方達がいるのだ。

察するに奉行よりのお達しは「占部には肥前の内瓜生野村を仰せ付かった」ということだけで、それが何のつもりかは説明がなかったに違いない。だいたい大領主たちの国分をしている時に細かい事まで支持があったわけはないのである。とにかく仰せ付かった貞保本人も、周囲の人々も貞保個人が拝領したものと解釈したのだ。到底他の家臣達の糧米に充てるためのものとは思えないほど少ない土地だったのだろう。

ところが、まさかまさかこれが最後の拝領分となってしまった。氏貞の後室に与えられた所領のなかではとうてい家臣全部は養えない。社家は宗像社の社職につき細々と暮らしたのだろうが、その他の家臣は他所へ移るか、他家への士官を考えるか、それともなければ帰農するかしかなかった。後になってつらつら考えるに、貞保が拝領したというのは宗像家臣代表として受け取ったのではなかったかという思いを起こし、誰かが後になって追筆したのだろう。

小早川秀秋(羽柴秀俊)は豊臣秀吉の正室ねねの甥で、天正13年(1585年)羽柴秀吉の養子になり羽柴秀俊と名乗っていた。文禄3年(1594年)に秀吉の命により、小早川隆景の養子となったのである。隆景とは異なり、秀秋は秀吉同様、宗像家に対しても旧宗像家臣に対しても何の感情も無かった。

小早川隆景のおかげで占部貞保がせっかく宛行われた瓜生野も、文禄2年(1593年)に箱崎宮の放生会にて家臣達が引き起こした刃傷沙汰の責めにより没収されたという。この年号に関しては文禄4年(1595年)秀秋が召し上げたという説もあり、慶長2年(1597年)に返上したという話もある。事件の時、調べに入ったのは隆景の側近乃美備前守だというが、乃美備前守は文禄元年(1592年)の朝鮮出兵の折になくなっているから、事件の年号も違っているかもしれない。領主が隆景から秀秋になった時か、隆景が亡くなった時か、とにかく隆景の力の及ぶ限りは宗像家や貞保を擁護しようとしていたことは間違いないだろう。

黒田藩へ

慶長5年(1600年)九月、関が原の戦いで徳川家康についた小早川秀秋は、備前岡山に加増され、転封された。筑前は家康に加勢した黒田長政に与えられ、長政は慶長5年十二月に博多に到着した。宗像三社縁起によれば、以前大宮司家があった頃には社家77人がいたが、小早川秀秋の時に社家が無くなった為に多くの社人が離散した。長政公筑前入国の時わずかに残っている社人がいたが、秀秋の苛政によって安定した生活もなく苦しんでいるのを聞き及び、長政は慶長11年(1606年)、田島、大島、奥の島の社家13人に田禄を分かち与えて飢えと寒さから救ったという。記録にはこの年宗像社に田島村内50石を分け与えている。その後宝永(1704年〜)年間の黒田藩の記録によれば宗像田島宮の石高は133石4斗2升9合6勺6才となっており、黒田藩時代を通して変わりなく給与されている。又、占部安延が主家及び亡子盛延の追福の為に再興した承福寺も、宗像家断絶以降荒れ寺となっていたが黒田如水が、宗像家の菩提寺として旧来の田畑及び山林を回復した。
黒田初代藩主長政公の父君、黒田如水公は、宗像の地を領されて、領内御廻郡の折、氏貞公の塔所へ参詣されたという。この時、あわてて出迎えた承福寺住職は野良仕事の最中、泥まみれであった。宗像家没落と共に官位百刹の名刹、承福寺もすっかり疲弊し、住職自らくわをもち百姓然であったという。これを見られた如水公は、先の国主の菩提寺の荒廃をあわれまれ、山林用地を授けられたという。「宗像黄門氏貞公の業績(氏貞公御塔護持会)より」注)刹=寺のこと
承福寺−ふるさと紀行

占部氏系伝

貞保の子 長男守次

貞保の長男守次は天正7年(1579年)に生まれ、慶長3年(1598年)に元服して久内守次を名乗った。守次の生まれる前年貞保は、宗像皇大神遷宮の座にて大和秀尚を面縛し、氏貞の逆鱗(げきりん)に触れ籠居中であった。

慶長3年に元服した時、既に宗像家は断絶しており、父が秀吉から賜った瓜生野の土地も失っていたから、生活も困窮していたに違いない。嫡男であるにもかかわらず占部を継がず、後には旧宗像家家臣で田嶋社僧の豊福長賀の婿養子となり玄海町江口に住んだ。家の事情から養子に出たのだろう。後に上八村今居原に戻り、占部に復姓した。守次の長男新左衛門貞次の代から上八村の庄屋を勤めている。
貞保の子 次男末保
二男末保は、天正13年(1585年)に生まれた。この前年父貞保は筑後守となり、以前の様ではないにしてもその地位を回復している。慶長8年(1603年)に元服し、与太夫貞持を名乗り、後に次郎左衛門、四郎右衛門となった。厳しかった秀吉の時代も過ぎて、領主は黒田長政となっていた。

長政は元和9年(1623年)八月に死去し嫡子忠之が家督を継いだが、この時に長政の遺言により忠之の弟長興に秋月5万石、同高政に東蓮寺4万石を分与し、東蓮寺藩が成立した。寛永5年(1628年)に、占部末保は東蓮寺藩に召し出され、初代の黒田高政に仕えた。

寛永14年(1637年)に天草・島原の乱が起き高政は江戸を発った。末保は高政とともに江戸詰めとなっていたようである。島原への従軍を家老の吉田壱岐重成に願い出たが許されず、53歳の身で戦功のないことを嘆いた末保は密かに江戸を発って島原に赴いた。寛永15年(1638年)二月の原城落城の時一揆勢の首を上げた末保だったが、藩主の命に叛いたとして恩賞もなく、同年六月に禄を辞して宗像郡上八村に籠居する。

上記吉田壱岐重成とは、旧宗像家臣の吉田氏のことではなく、黒田如水の家臣の内「黒田二十四騎」の一人吉田六郎太夫長利(壱岐守)の嫡子重成のことである。末保は長利の娘サゴ(佐古)を妻に迎えていた為、吉田重成とは義理の兄弟関係にあった。もっとも妻のサゴは吉田長利の家女房亀との間に生まれた子で、嫡子重成とは腹違いの妹であった。

末保が黒田高政公に仕えたのは、妻サゴが38歳で亡くなった後のことで、東蓮寺山部に住んだという。末保はサゴとの間にできた娘を兄守次の長男占部新左衛門に嫁がせた。

島原の乱の後、上八村に籠居していた末保だが、正保2年(1645年)には福岡に出て、町奉行長浜四郎右衛門の屋敷に寓居した後、博多聖福寺に籠居し、寛文6年(1666年)一月に82歳で没した。墓は聖福寺、塔頭円覚寺にある。後孫は今も朝倉(福岡県)に残る。

貞保の子 三男貞俊

三男貞俊は天正19年(1591年)に生まれた。慶長14年(1609年)に元服して、市左衛門貞俊と名乗った。系図にはっきりとした記述はないが、黒田藩(福岡藩)に仕えていたと思われる。寛永11年には九郎右衛門と改名した。

黒田家の縁者

吉田氏

占部末保の妻の父吉田六郎太夫は、天文16年(1547年)姫路の郷士の家に生まれ初名を八代六之助といった。17歳で黒田職隆(もとたか)に仕えてより、孝高、長政の三代に仕えた。孝高の命で吉田六之助を称し、六郎太夫と改名、筑前移住の時に壱岐に改めた。勇将で黒田二十四騎の一人として名を連ね、筑前入国後には二千石の知行を受ける。

二代目吉田壱岐重成は次男であったが、嫡男が戦死した為筑前入国後まもなく家督を嗣ぎ、早良郡の内二千石を領した。元和9年(1623年)黒田長政が亡くなった時、重成は七左衛門を名乗っていたが、次の藩主忠之により鞍手郡内四千石に加増され、家老として東蓮寺藩主黒田高政の付属とされた。当初藩主高政は江戸に留まり、寛永11年(1634年)まで東蓮寺に入部しなかったため、国元の政治は家老の吉田七左衛門が差配していた。吉田七左衛門は占部末保にとって義理の兄である。末保の妻サゴは重成の腹違いの妹であった。ただしサゴは家女房つまり側室の子であったから、重成の側に近しい気持ちがあったかは疑問である。とにかく逸(はや)る末保に島原行を許可することは決してなかった。重成とその子は島原の原城に向かったが、重成は敵の夜襲を受け重傷を負い、その傷がもとで間もなく亡くなった。

吉田知年(ちかとし)と宗像

重成の跡は三男知年が継いだが、父の遺禄四千石を賜り家老となった。その年、主君高政が亡くなり、福岡藩主忠之によって家老の入れ替えが行われ、知年は福岡藩の中老となった。知年の弟吉田久太夫利安は忠之に近仕していたが、機嫌を損ねて所領二千石を没収されて浪人となり筑前を去った。このことで知年も又忠之に憎まれて冷遇され、役職も度々変更するとともに所領も動かされた。しかし承応元年(1652年)には宗像郡(曲村・本木村・有自村・田野村)、鞍手(新延村・稲光村)、嘉穂郡(建花寺村・伊川村)を賜った。明暦2年(1656年)に忠之が亡くなり、光之が福岡藩主となる。このとき、千石加増され、宗像郡内五千石を領するようになる。
  • 田畠高2463石2斗3升3合2勺 野坂村
  • 田畠高 916石1斗2升2合 八並村
  • 田畠高 194石6斗5升1勺3才 土穴村内
  • 田畠高 748石7斗1升3合2勺 徳重村
  • 田畠高 176石6斗9升4合5勺7才 久原村内
  • 田畠高 500石5斗8升6合9勺 元木村       以上合高5千石   
知年と宗像のつながりは深い。知年は塩田開発にも熱心だった人物で、寛文3年に志摩群今宿の潟、御牧郡山鹿浦などとともに勝浦の干拓を幕府に申請、寛文6年(1666年)から勝浦(福津市)塩田の開発に取り組み始めている。

又、知年は寛文8年(1668年)野坂村に館を構えた。これは巴屋敷とも言われ、かつて秀吉が通った唐津街道の太閤水の近く、山ノ口にあり、知年はここを別荘のように時々訪れては余暇を楽しんだという。延宝元年(1673年)に知年が亡くなった後、その子増年の代に三笠郡に替地となって館は取り壊された。しかし、幼少の楽しかった記憶がそうさせたのか、病気の為家老職から退いた増年は、巴屋敷の近く八並の小田の浦に隠居所を設けてここに住んだ。 「貞享年間宗像郡村々給知書上帳」によれば、宗像郡の給人数172人の内、一位は吉田七左衛門増年(後、六郎太夫)で、15か村合計4612石余(糟屋郡原上分を除く)を領し二位を大きく引き離しているている。以下一応内訳を上げる。       

「貞享年間宗像郡村々給知書上帳」による吉田七左衛門増年の知行地 
1021石7合 内殿村100石 曲村68石6升8合 在自村
916石1斗2升2合 八並村100石 多礼村13石8斗2升1合4才5 本木村
1306石7斗2升6合8勺 野坂村50石7斗5升6合 名残村448石1斗1升2合 平等寺村
172石4斗3升4合 大穂村 138石7升2合5勺 奴山村 177石 竹丸村
100石 王丸村 445石2斗4升2合6勺5才5裏糟屋郡原上村 合田畠5057石3斗6升2合
  

占部氏系伝

占部貞保―┬守次(豊福周賀婿養子)
          ├末保(東蓮寺藩黒田高政仕手)
          └貞俊―┬忠右衛門俊安市郎右衛門末次(帰農)
         
三男貞俊の嫡子俊安
長男忠右衛門俊安は寛永10年(1633年)井上周防入道道柏に追従して遠賀郡黒崎に住んだという。 この井上周防入道柏というのは井上周防守之房(九郎右衛門・後に道柏と号した)のことで、黒田24騎の一人である。勇猛果敢で、人望も厚かったらしい。黒田長政の筑前入国の折、黒崎城の築城を命ぜられ遠賀郡一円で一万六千石を領した。元和元年(1615年)、黒崎城が廃城となると、現在の八幡西区穴生にある弘善寺の末庵、舎月庵(八幡西区陣原)に移り住み寛永11年(1634年)11月22日に亡くなっている。隠居の跡は嫡孫の主馬正友が継いだが、主君忠之と対立した栗山大膳(利章)の娘を妻としていたため、『黒田騒動』(寛永9年(1632年)に起こった君主忠之と重臣達との抗争)により出奔。その領地は叔父の之顕が継いだが、その子の代に再び領知没収となり断絶した。
 舎月庵(北九州市八幡西区陣原)
 井上周防守之房(道柏)が黒崎城廃城の後に移り住んだという

忠右衛門俊安が道柏に従ったのは寛永10年で、黒田家のお家騒動が決着した年である。道柏は翌年81歳で亡くなるが、お家騒動の時にはしばしば登場するから未だその時は元気だったのだろう。俊安20歳の頃のことである。ちなみにその時、父貞俊は43歳だった。貞俊、俊安の親子は黒田家の菩提寺である崇福寺の和尚に戒名をもらっている。今もその後孫が福津市津屋崎に残っている。

三男貞俊の次男
貞俊の次男市郎右衛門について、系図には次のような内容が書かれている。

「宗像家断絶後、父祖は微禄に甘んじて、黒田家に仕えたが、万事何かとかみ合わないことが多く、面白くない日々を耐えていたが、悲憤痛恨の極みに至り、断然と意を決し、子孫がお家を再興する時が来るのを待つべく、先祖伝来の槍釼を捨てて鋤鍬を握り帰農した。稲元村に移住し、荒野を開墾して池沼を拓き、大いに農事に励んだ。」

参考資料:福岡藩に仕官した占部氏(別ウィンドウで開きます)
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