その2 大内氏とともに

応仁の乱

室町幕府8代将軍義政の時、幕府内の有力守護大名同士の権力争いが激化し、ついに東軍西軍に分かれての大戦が起こった。細川勝元と山名持豊(宗全)の二大勢力が、将軍と管領の跡継ぎをめぐって対立し、応仁元年(1467年)応仁の乱が始まる。全国の武士が細川氏の東軍と、山名氏の西軍に分かれ、京都を中心に11年間も戦いが続いた。対外貿易で細川氏と対立していた大内政弘は山名宗全の側につき二万の軍勢を率いて上洛した。占部弘安もこの時一緒に上洛し、そこで命を落とした。一緒に弘安の叔父祐安も参戦し功績を上げたという。相継ぐ兄弟の戦死で家督をついでいた叔父清安から家督をゆずられた弘安だったが、弘安の戦死によって清安の弟祐安が家督を継ぐ。

一方九州では、大内氏の目が京に向いている隙に、
追われた少弐氏が巻き返しを計っていた。

この時代の人物
大内氏
      ┬義弘─┬─持世─教弘(養子:盛見の子・一説に持盛の子)
      │    └─持盛┬教幸
      │              └女(宗像氏郷妻)
      ├盛見───教弘──政弘─┬─義興──義隆
      │                        │
      └弘茂                    └─高弘
少弐氏
教頼─政資(頼忠)┬高経
                └資元
占部氏
祐安──┬豊安──尚安
        ├盛祐 戦死 
        ├豊廣 山口五郎
        └明隠和尚 承福寺住僧
《宗像大宮司歴代》
68 氏郷(任:1458年− 1478年)
69 氏国(任:1478年− 1478年)
70 氏定(任:1478年−1487年)
71 興氏(任:1487年− 1497年)

72 氏国改め氏佐(任:1497年−1500年)
73 興氏(任:1500年−1501年)
74 氏佐(任:1502年−1504年)
75 興氏(任:1504年−1508年)

76 正氏(任:1508年−1527年)
77 氏続(任:1527年−1533年)
78 正氏(任:1533年−1536年)
79 氏男(任:1536年−1551年)

応仁の乱と宗像家

文明元年(1469年)夏、若い宗像氏定は大内家にあった。当主大内政弘は応仁の乱で2万の軍勢とともに京に出張中であった。氏定の母は大内持盛の娘である。祖父持盛は、相続をめぐって兄持世と争い、討ち果たされていた。現在の当主政弘の父教弘は持世の養子で、盛見の子或いは持盛の子とされている。母の実家とはいえまだ血肉の争いの傷跡は残っている。氏定の立場は複雑であったろう。この時氏定は母の兄大内教幸を頼っていたと思われる。ところが当主不在の折、この伯父教幸は謀反を企て、防長を押領し、家督を奪わんと画策する。氏定は甥の立場としてしばらくこれに従い防州にいたが、悩んだ末ついに義の心変わらず伯父の計略を父大宮司氏郷に告げた。

大内政弘が上洛してからすでに二年が経とうとしている。この間政弘は畿内各地を転戦していた。戦いはいつ終わるともわからない。機に乗じて大宰府を追われていた少弐教頼が太宰府奪回に乗り出した。教頼は嘉吉の乱(嘉吉元年/1441年)の後、政弘の父大内教弘によって太宰府を追われていたのだ。東軍につき対馬の宗盛直らと兵を挙げる。しかしついに宿願を果たせないまま亡くなった。

跡を継いだ頼忠(後の政資)は、文明元年(1469年)対馬勢を率いて博多に上陸すると、筑前の味方と合流し太宰府に攻め寄せる。大内氏が大宰府に置いていた代官仁保盛安が内応したためついに大宰府を奪回した。更に九州探題渋川氏を追い出した頼忠は一挙に北部九州に手を広げる。占部氏系図には文明元年5月に仁保加賀守弘直が宗像郡西郷に出陣、この時大内持世の弟教祐が戦死したと書かれてある。精鋭たちを京に送り出している大内方の各諸将は、少弐氏の怒濤の進撃に抗しきれない。大内方を貫く諸将達は山口へ敗走した。危機に直面して宗像氏郷は大宮司として残り、嫡男氏定を中国に送り出したのだった。

さて叔父の蜂起を知った大内政弘は、留守居役の陶弘護を差し向ける。宗像氏郷は弘護と示し合わせて兵を出し、豊前に逃れた大内教幸を馬ヶ岳城に追い詰めた。又、大内教幸に同調した少弐氏の有智山城を攻めたという。(有智山城を攻めた話は宗像系図にも占部家系図にも出てくるが、その時期については特定できない)しかし細川氏を後ろ盾とした少弐氏優勢は変わらなかった。京の戦線で大内氏の軍力に圧倒されていた細川方は大内方の勢いを削ぐ為に九州諸将にも諜略をかけていたのである。やがて大友親繁・政親父子も、豊前・肥前・筑前攻めを開始する。 少弐政資は大友政親の娘を嫡男の嫁に迎え、小城の千葉氏や竜造寺氏とも縁を結び基盤を固めた。この後文明10年(1478年)までの10年余り、少弐政資の全盛期となる。

大宮司氏郷という人

ところで、宗像氏郷という人物だが、少々変わっている。宗像家の武領を引受けて守ってはいたものの社務職には就かなかった。代わりに弟の氏弘が社務職を継いだが、2年余りで亡くなった。17歳である。その後も、まだ氏郷は社務職に就かない。氏弘の弟氏正が16歳で継いだ。その氏正も28歳で亡くなってしまう。ここに至ってようやく社務を継ぎ大宮司となった。社務職には興味がなかったのか。その一方で、朝鮮との通交には極めて熱心であった。応仁の乱が起こるまでは頻繁に船を送り、 乱勃発後も2・3年すると通交を再開した。文明2年(1470年)には朝鮮国王成宗が、宗像氏郷らの歳遣船は一年一艘と定めている。一年一艘と定めらたのは大宮司氏正の時だったが、氏郷に至って頻繁に送るようになったからだろう。おそらく、歴代の中で一番熱心で朝鮮国での知名度も高かったのではないか。その後の宗像からの船は氏郷が亡くなって後も長く氏郷名義を使っている。少弐政資に支配を受けた10年間、無事過ごし得たのも、案外この辺の才覚が功を奏したのかもしれない。

文明9年(1477年)になると大内政弘は11年間続いた応仁の乱に見切りをつけて九州の勢力回復に力を注ぐようになる。文明10年(1478年)大軍を率いて九州に進撃した政弘は博多を奪回し、少弐政資を追った。この時を待たず、同年正月に大宮司氏郷が亡くなった。嫡男氏定は大内政弘に従って山口に住んでいたが、父亡き後もすぐには帰国せず、9月になって大内政弘の九州出征に合わせて帰国し大宮司に着任した。この後大内政弘が筑前国守護となっている文明年間、氏定は大宮司を務めたが、長享元年(1487年)、10年余りの在職で亡くなっている。

大内政弘の死・再び争乱

大友持直は大内盛見を永享3年(1431年)に討ったことで幕府の怒りをかい、守護職を剥奪された。幕府は一族の大友親綱を豊後守護としたが、これによって大友家中は両派に分かれて分裂し、衰退した。大友親繁の代になり、勢力を一時盛り返し、応仁の乱では少弐頼忠とともに東軍細川方について大内氏と戦い、豊前・肥前・筑前などを積極的に攻めた。親繁の後を継いだ政親は娘を少弐政資の嫡男に嫁がせていたが、後に大内政弘の娘を嫡男義右(よしすけ)に迎えた。しかし、この縁が災いし、政親・義右が分裂する。大友氏は、大内氏の策謀によって危機に瀕していた。明応4年(1495年)9月、周防・長門・筑前・豊前の四守護だった大内政弘が病死し、嫡子義興が跡を継いだ。翌明応5年、大友家では、義右と政親が相次いで亡くなると大友親治が新当主となったが、親治は素早く内乱を収め、大内氏の干渉を拒んで大内義興と対決姿勢をとる。同年、宿敵大内政弘の死を受けて少弐政資が動き出した。大宰府を攻めてこれを回復し、大友氏と手を組んで筑前に進攻する。これに対して翌、明応6年(1497年)、大内義興は大軍をひきいて少弐氏の有智山城を攻めた。少弐政資・高経親子は大宰府を追われ、肥前を転々とした末に死んだ。当主政資と嫡子高経を失った少弐氏は一時滅びかけた。

宗像記追考

宗像記追考は占部貞保(宗仙)が書いたとされるが、出来る限り正確な記録を残したいという思いに交じって、貞保自身の感情や性格が時々顔をのぞかせる。本書には明応7年に大宮司氏佐と先職興氏との争いについて述べた部分があるので、以下文章を少し平易に書き換えて掲載する。「 」の中が書の抜粋である。

大聖院宗心:
大内親治のいとこ。政親・義右父子の対立を画策したといわれている。大内義興は大友政親・義右父子の死後、宗心を将軍義材(よしき/後に義尹)に推挙していた。
「豊後国の僧徒に大聖院宗心という者がいた。職でもない武勇を好んで、腕に物を言わせること俗人以上である。豊後守大友政親の父子が義絶に及んだ時、この僧に反逆の噂が立ち、害が及ぶのを恐れて防州山口に行き、大内権之助義興に頼ったが、義興は彼をねんごろに迎えて抱え置いた。」
大友親治が新当主となって以来、内政干渉の道も閉ざされ、大友氏と敵対関係になった大内義興にとって、大聖院宗心の亡命は歓迎すべきものだったのだろう。

さて、宗心は、
「石州(石見国) 爾摩郡(にまぐん現在の大田市)に一寺を建てて住んだ。仏道の勤めは一切せず、朝な夕な武芸に親しみ、月日を送っている。やがて本国に帰って旧恨を晴らそうとの思いがあっての鍛錬である。大内殿に勧めて云うには、「豊後は今政道が悪く、人望に背いています。今の時節をとらえて攻めればたやすく御手に入るでしょう。その時には、愚僧が案内者として御先手つかまつります」という。大内殿はこの義に同意し豊後を攻めるべく議定した。

明応7年8月に大聖院を案内者として先に立て、陶次郎興房、杉七郎重清、並びに彼の一族その勢五千余騎が山口を発って、関の戸を渡り、豊後の堺に着陣した。豊後はこの事を聞いて人数を出し追い上げて佐田の城という所で対陣した。山口勢は二番三番五番の備えで各大勢攻め入って要害の地に陣を構える。六番は大内殿お馬廻り三千余騎、都合その勢一万千余騎といわれる。ここに、大内殿の御舎弟氷上(ひのかみ)殿堯阿闍梨(大内高弘)が野心を起こしたとの知らせがあり、大内殿は軍を返して討ち入られた。 以降、豊後筑前は国乱れ、大内方大友方と二つに分かれてここそこで合戦が絶え間ない。これが、興氏と氏佐とが合戦に及ぶ発端であった。」

明応7年(1498年)大友親治は佐田泰景を攻撃、大内方の軍勢と衝突した。佐田城は豊前と豊後の堺に位置し、大内氏は佐田氏を宇佐郡代として置いていたのである。占部祐安は嫡子豊安とともに大内義興に従い佐田城で戦った。豊前国内の諸城を巡って大内氏と大友氏の激しい取り合いが始まった。大内氏の戦力を何としてでも削ぎたい大友親治は、明応8年、まだ少年だった少弐政資の嫡子資元に大友政親の娘を娶せ、後ろ盾となって滅びかけた少弐氏の息を回復させる。筑前豊前は大内方大友方に分かれて大争乱が始まった。

「大内方というのは高鳥井の神代(こうしろ)紀井守貞総、安楽平(あらひら)の城に神代与三兵衛尉武総、これは貞総の弟である。許斐岳城に占部壱岐守豊安、高祖の城に原田弾正興種、片腋の城に大宮司興氏、これらは皆大内殿味方の城である。大友方は筑前所々の城々を堅めて大内方を敵として、絶え間なく防戦する。加えて大宰府少弐家の諸軍勢が大友の下知に従って、高鳥井城を攻め落とそうと城の切岸まで攻め寄せるが、紀井守貞総は千騎ばかりで立て籠もり、守りは固く簡単には落ちない。貞総は時を見ては打ち出て敵を八方へ追い払い、たちまち運を切り開いた。」

大宮司家の内乱

「さて、前大宮司の興氏はその勢八百余騎で西郷に打ち出て、立花の城を押さえられた。(明応7年)十二月五日というが、立花山城守、麻生与次郎、同与三郎は興氏を討とうとして打ち出る。その時蘿山の城におられた氏佐は常々社務職を奪い取られはしないかと気をもんでいたが、今幸いにも時を得た。これを機会に立花に味方して興氏を取り除き、心を安らかにしようと思いたち、二千ばかりの勢で興氏の陣に取り掛かった。芦間ヶ谷、岩ヶ崎で火花を散らして交戦する。卯の刻より申の終わりに至るまで追いつ戻りつ幾度となく戦う。

興氏の味方で討死した人々は、許斐宮内少輔氏能、大和左衛門尉信尚、及び郎党一人、濱源左衛門僕従新六、占部大膳進頼安、及び郎党一人、縄分彦七郎僕従一人、五郎右衛門小者孫一丸傷を被ること三か所。占部平三郎重安僕従二人、平左衛門平六、唐坊小三郎頼家、栗田民部丞定俊、塩川源兵衛尉秀宗僕従一人、藤四郎、嶺与三兵衛尉長能、合わせて15人は討ち取られた。その他手負いの物は数知れず。 氏佐の味方にも討死手負い数多あり。

こうして攻防が続き鬨(とき)の声の絶える間もなく矢石の雨降らぬ時もない。いつ果てる戦いともわからぬところに、防州山口にこの話が及び、大内殿から書が届く。少数で大敵に当たれば終わりに敗北するのは判っている。早く引いて後日の勝ちを考えるべきと告げられたので、興氏はこれに同意し、大島に渡ってしばらく敵の変化を見ようと島に渡られた。寺社の貴賤たちは我先に大島に渡った。」

翌年は逆に興氏に追われた氏佐が豊後に出奔した。「このようにかわるがわる明応7年から永正2年に至るまでその間8年は静かな日は一日もなかった。」

大宮司氏佐

この記述を見ても、著者貞保(宗仙)の曽祖父豊安が宗像興氏側であったことがわかる。この話では、大宮司氏佐が臆病で欲深く一方的に悪いことになっている。また、大宮司家のこのもめごとのすべての原因が大友家の大聖院宗心のせいであると決めつけているのも面白い。

そもそもこの争いは、興氏の父氏定の時代に端を発していた。応仁の乱が起こった時、大内氏は上洛し、筑前は10年余り少弐政資の勢力下に置かれた。応仁の乱で兵を出して手薄なうえに大内氏からの援助も期待できない。筑前大内方の諸将は少弐氏におもねるか、他国に逃れるしか方法がなかった。10年余りの間、大宮司氏郷の嫡男氏定は大内家を頼って山口に住んでいた。父亡き後もすぐには帰国せず、文明10年9月になって大内政弘が九州に出陣した時、ようやく帰国して大宮司に着任した。

父の死後わずかの間、氏定の弟氏国(後、氏佐)が着任していた。父とともに筑前に残った氏国(氏佐)は、少弐政資が威勢を振るう間、父とともに生き抜かなければならなかった。青年期を山口で過ごし、大内氏べったりの兄氏定と、少弐氏の顔色をうかがいながら生きた氏国(氏佐)と、この境遇の違いが後に氏定の子興氏との確執となって現れたといえよう。

興氏は大内義興の一字を賜り、山口に在勤した。大内家一筋の興氏のようになれといっても氏国(氏佐)には無理な話だ。始めは大内義興に従って戦場に赴くことが多くなった興氏の代わりに社務職を引き受けたのだろうが、この動乱期に戦況がひっ迫してくれば生き残るためにあれやこれやと考えがめぐる。そんな時に、あちこちから諜略を受ければ心も動くだろう。

恐らく大内氏もそのことを配慮していた。自分に近い興氏の父氏定には重臣陶氏(陶武護)の娘を娶せ、目の届きにくい宗像の氏国(氏佐)には政弘の娘を嫁がせた。時期は大内政弘が少弐政資を文明10年(1478年)に筑前より追った以降で、明応9年(1500年)氏国(氏佐)の長男正氏が生れる以前である。大内家とのこの微妙な関係が興氏・氏佐の対立を複雑にし決着を難しくした。

占部氏系伝

応仁の乱が始まると、少弐氏が力を盛り返して来るが、そんな中、大内氏が大宰府に置いていた仁保盛安が少弐氏に寝返った。又、仁保弘直が筑前に兵を進め宗像西郷にまで至る。占部祐安はこの時参陣し、矢傷を受けたが、仁保弘直の軍を破り、少弐氏の有智山城を攻めている。

仁保氏との戦で負傷してから2年後の文明3年(1471年)、祐安に嫡子豊安が生まれている。母は大内家の家臣内藤掃部助弘重の娘で、明応6年の大宰府攻めの折にはこの祖父とともに出陣している。

占部氏の系図には『永正3年(1506年)正月、少弐筑後太郎教頼の子筑前次郎政資、大宰府で蜂起す。筑紫上野介資方・麻生与次郎元貞等これに與(くみ)す。義興自ら陶五郎、杉七郎、弘中下野守、内藤掃部助、青景弾正忠以下二万余騎を率いてこれを攻む。政資ついに戦亡す。豊安大内家に対し軍忠甚し。』とある。少弐政資が戦死したのは明応6年のことであるから、内容から見ても明応6年(1497年)の誤りであろう。

ところで、祐安が仁保氏と戦ってから、上記明応6年(1497年)少弐氏を大宰府に攻めた記録までの30年間弱、占部氏の系図には戦った記録がない。始めの10年余りは少弐政資の全盛時代であったが、文明10年(1478年)大内政弘が博多を奪回し、少弐政資を追ってからは比較的静かな時が流れていた。その後、明応年に入ると徐々に世間が騒がしくなってくる。

明応4年(1495年)9月、大内政弘が病死すると、少弐政資や大友親治が北部九州の覇権を取り戻そうと一気に頭をもたげてくる。その頃、占部豊安は立派な青年に成長していた。豊安が武名をあらわしたのは明応7年(1498年)9月、豊後佐田城における大友勢との戦場であった。豊安は父祐安とともに大内氏に対する忠節を貫いていた。

明応7年(1498年)大内義興に従って父とともに豊前の佐田城に向かい、翌年には大内氏に後援された宗像興氏を助けて氏佐の片脇城を囲んでいる。大内氏にしても宗像氏にしても、主家の中での争いは時として家臣を窮地に追い込む。現職大宮司氏佐の片脇城を豊安はどんな思いで囲んでいたのだろうか。

幕府の内紛と上洛

明応8年(1499年)足利将軍義尹(よしただ)(=義材・義稙)が管領細川政元に追われ、大内義興を頼って山口に逃れてきた。細川政元は代りの将軍に義澄を擁立し、大友親治・少弐資元・菊池氏等の九州勢は義澄を支持した。翌年文亀元年(1501年)大友親治は嫡男義長に家督を譲ったが、義長は豊後・筑後・豊前の三ヶ国の守護を安堵され筑前・肥前内に所領を得た。又、大友親治と結び大友家より妻を迎えていた少弐資元は、次第に頭角を現し肥前守護を認められるまでに力を回復していた。結果、九州内で大内氏の版図は筑前一国に縮小し劣勢をしいられた。

永正4年(1507年)、細川政元が暗殺された。後継者をめぐり細川家では政元の養子澄之・澄元の間で内紛が続く。大内義興はこの混乱に乗じて前の将軍足利義尹(よしただ)を押し立てて上洛を開始した。次期当主にほぼ決まっていた澄元だったが、亡き細川政元のもう一人の養子細川高国が大内方に内応したため、将軍足利義澄と共に近江に逃走した。上洛を果たした大内義興は、義尹を将軍職に復帰させる。

足利義尹(よしただ)を得たことは大内氏にとって幕府内の権力を回復するに又とない機会であった。応仁の乱以後、管領細川氏が対明貿易を独占し、閉め出された大内氏は朝鮮貿易を再開してしのいでいた。永正5年を機に復権を果たした大内義興は、以後約10年の間京で幕政につき、対明貿易の実権を握るようになる。

占部氏系伝

追われた前将軍義澄は細川澄元等とともに京の奪回をはかるが、目的を果たせぬまま病死した。永正8年(1511年)細川澄元の味方についた一族の細川政賢(まさかた)は丹波と山城との要衝船岡山に陣を張った。大内義興は中国勢8千をもって夜討ちをかけ、敵将細川政賢を討ち取って勝利する。この時宗像興氏他九州諸将も動員されていた。興氏は船岡山の戦線で亡くなる。占部豊安は永正5年に上洛、船岡山では「軍忠他に超え・・」功をたてたという。しかしその戦で弟占部孫三郎盛祐、家臣弘中五郎等を失った。

興氏・氏佐の争いに終わりがなく見えた大宮司家の混乱も、永正年に入ると継ぐ実子がいなかった興氏の後を氏佐の嫡子政氏が継ぐことで決着した。幼名は阿賀法師といい、大内政弘の孫だったので、始め政氏と名乗った。後に遠慮して『政』の字を『正』に改めて正氏としたという。永正5年(1508年)大宮司興氏は足利将軍義尹(よしただ)(=義材・義稙)上洛に従うため、社務職及び所領を政氏に譲り上洛した。大内軍に属していた興氏は永正8年(1511年)船岡山の戦線で亡くなった。

一方、将軍義澄と細川氏の失脚により後ろ盾を失った大友義長は、足利義尹の将軍復職にともない大内氏に豊前守護を譲り和睦を図った。義長は嫡子義鑑の妻に大内義興の娘(=義隆の姉)を迎え、両家が縁戚関係をもったことで北部九州は比較的穏やかな時が続いた。

尼子経久登場

永正15年(1518年)、大内義興は京を離れた。出雲の尼子経久を押さえなければならなかったのだ。尼子経久はかつて大内義興の軍に従軍し、船岡山の合戦にも参加していた。しかし、合戦での功績に対して恩賞を与えられなかった事を不満に思い、義興の留守に反旗を翻したのである。帰国した義興は尼子経久の攻略を封じようとするが、経久の勢いは止まらない。大永元年(1521年)には石見に進攻、大永3年(1523年)には安芸の大内氏の拠点であった鏡山城を攻めた。隣国・周辺国へと手を伸ばす尼子氏と大内氏は度々激突したが、大永5年(1525年)になって、尼子軍として活躍していた毛利元就が大内氏側に寝返ることにより、安芸の国の状況が大内氏優位に傾いた。

大内氏の少弐氏追撃

人の欲とはきりのないものだ。大永6年(1526年)に石見銀山の開発が本格化するとその利権をめぐって争いはますます激化する。大内義興は尼子経久との争いの最中、享禄元年(1528年)に病死した。後を継いだ大内義隆は、相変わらず尼子氏と争っていたが、そこばかりに気を取られてはいられない。再び九州の勢力回復へ力を注いだ。

享禄3年(1530年)の4月、筑前守護代杉興運(おきかず)に命じ、少弐資元の追い落としにかかる。8月には龍造寺氏を頼って勢福寺城に逃れた資元を更に攻める。しかし、龍造寺氏の活躍によって敗退。杉率いる大内軍は大宰府に敗走した。翌年少弐氏は大友氏と同盟して岩屋城の杉興運を攻めた。これに対し、天文元年(1532年)2月には陶興房に命じて制圧に向かわせる。大友軍と合流した少弐資元は、大友方の立花城に入るが、大内勢は立花城主立花親貞を攻めてこれを破った。 11月にはいよいよ大内義隆が少弐氏・大友氏を討たんと、本陣を長府に構えた。

立花城を落延びた少弐資元は肥前に戻るが、天文3年(1534年)10月大内義隆が自ら三万余の大群を率いて領国筑前に入り太宰府に陣を敷いた。義隆は資元と和議を結んだが龍造寺氏を味方に引き入れ翌年には少弐氏の領地を没収。天文5年に『大宰大弐』の地位を手に入れると、資元を自害に追い込んでいる。

ところで覇権を握るはいいが、幾つもの領国を維持するのも楽ではない。義隆には九州での勝利に酔う暇もなかった。天文7年(1538年)、前年家督を継いだ尼子詮久(あまごあきひさ)(後に晴久)が石見銀山を急襲し大内氏の手より奪い取ったのだ。今や九州の覇権を争っている場合ではなくなった。少弐氏との争いが元で対立関係になった大友義鑑(よしあき)と幕府の仲介で和睦。尼子攻めに向かう。

天文9年(1540年)尼子詮久は、配下だった安芸の領主毛利元就が大内義興側に寝返ったのを許さず、大軍を率いて毛利元就を攻めた。数では優勢だったが大内側の援軍を加えた毛利軍に敗退。これを機と見た大内義隆は天文11年(1542年)尼子氏の富田城を攻める。(第一次月山富田城の戦)ところが大内軍は完敗し、義隆の養子晴持も死んだ。 元々武に疎く文人的傾向のあった義隆は、次第に政治的関心を失い武を一義とする陶ら家臣との対立が深まっていった。

天文12年(1543年)大友義鑑(よしあき)は大内氏に対抗して『鎮西探題』の官職を得、筑前は大宰大弐と鎮西探題の九州最高官が並立することとなる。

大宮司家の危機

『宗像神社文書』によれば永正15年(1518年)宗像正氏は大内義興より家督を安堵されている。しかし又しても正氏と氏続の兄弟間で大宮司職をめぐる争いが起きる。

占部家の系図によれば大永5年(1525年)安部伊豆守範任と占部豊安は共に宗像の深田村に兵を進め、宗像氏続の館を囲み、氏続は行方をくらませたとある。氏続を攻めたのも家臣達の考えというより大内氏の意向によるものであったと思われる。折しも大内義興は尼子との戦で忙しく、北部九州のほぼ真ん中に位置する宗像が家中二つに割れて騒ぎになることを望まなかったのだろう。一度は氏続の野望を退けたものの、大永7年(1527年)には氏続に大宮司職を継がせ、正氏を山口に呼んで義興・義隆の傍に仕えさせた。

正氏の時代、宗像氏は完全に大内氏の御家人となっていた。正氏の母は大内政弘の娘であった。歴代大宮司の中で大内氏より妻を迎えた例はある。しかし、今までは対等とまではいかないにしても領主同士の同盟関係を強める意味での婚姻であった。しかし、大内氏が興隆するにつれ力の差は開き、どう見ても主従の関係にならざるを得なかった。大内家当主より偏諱(へんき・上位者が下位者に諱(俗名)を一字与える事)を賜り、山口在勤するようになったのは宗像興氏の時からである。大内義興、義隆と二代に仕えた正氏は、周防吉敷郡黒川郷を与えられ、黒川隆尚と称した。筆者は始め、単に黒川という領地を与えられそこに住んだ為に黒川姓を名乗ったのだと思っていた。しかしよく調べてみると大分意味が違っていることを知った。

宗像系図の氏男の項には『改姓氏多々良朝臣号黒川』とある。大内氏の始まりは百済聖明王の第三王子といわれ、周防国多々良浜に漂着したところから多々良姓を名乗ったという。つまり多々良は周防大内氏の本姓であり、陶氏、黒川氏もその分かれである。 『宗像宮御庁着座次第』や昔の公文書などの署名には『朝臣』をつけ自らの本姓を示すことがよくあった。宗像家の四任の家中、兼安に始まる占部氏は平朝臣、吉田氏は藤原朝臣を名乗る。大内氏は多々良朝臣を、宗像氏は宗像朝臣を用いた。深田氏は宗像氏の分かれであるが宗像朝臣を用いている。これは、古来から続いた宗像の嫡流が多々良に挿げ替えられたという話ではないか。しかし、この事を取り立てて騒ぎ立てた記録はない。

大永7年(1527年)氏続は正氏の猶子として宗像社家分を相続した。宗像の社領は氏続が社務職を継いだためそのまま据え置かれ、氏族及び武役の御家人の古くからの者達はそれまで通り各領知を与えられたが、その他の宗像領はことごとく大内殿の支配となった。

天文元年(1532年・享禄5年7月改元)、義隆が少弐氏・大友氏との本格的な戦に乗り出す、それに伴なって正氏(黒川隆尚)が帰国すると、大宮司に返り咲いた。系図によれば氏続は隆尚不在の時にも、帰国の後も、大内氏側として敵をよく防戦したと思われる。しかし、今や大内氏の一族となった隆尚が帰国すれば大宮司の座を明け渡さなければならないことに理不尽を感じていただろう。宗像三社と摂社を取りまとめる大宮司に宗像氏以外の家が着任するのはこれが初めてである。氏続不満の理由はどこにあったかさだかでないが、天文5年(1536)に発給された氏続感状から、この時合戦にまで及んだことがわかる。

同年隆尚は氏続の子氏男を猶子とし社務職を譲って、自らは再び防州に赴いた。しかし、氏男もあくまで黒川氏の養子であり、大内義隆の一字を賜り黒川隆像と改名した。更に、天文14年には隆尚の実子鍋寿丸が山口で生まれた。隆尚は、鍋寿丸に割分地を与え、家人を譲与し、氏男(隆像)とともに大内氏へ奉公することを命じた。どのみち鍋寿丸も黒川姓を名乗っていたから、ここにおいて古来より続いた宗像朝臣宗像氏は相続本家を黒川氏に譲ることとなる。

占部氏系伝

28歳で宗像興氏と氏佐の争いに巻き込まれた豊安であったが、54歳の時再び主家の争いに翻弄される。大宮司正氏の弟氏続は大宮司の地位をめぐって兄と争いを起す。大永5年(1525年)、宗像正氏の側についた豊安は安部範任等と共に氏続の館を囲んだ。しかし、氏続はこの囲みを逃れ、行方知れずとなった。後に、共に氏続を攻めた安部範任が氏続に通じていたとのうわさがたち、豊安は許斐四郎氏任などと協議し範任を飯盛山に討ち果たしたという。

家中に犠牲を出しながら守った大宮司職であったが、正氏は2年もしないうちに氏続に職を譲っている。氏続が大宮司となった翌年、大内義興が没して子の義隆が相続した。大宮司を譲った正氏は山口に出向して義隆の傍近くに仕えた。しかし、残された正氏側の家臣達と新大宮司氏続との関係はどのようなものであったろうか。

その翌年の享禄2年(1529年)豊安は許斐山に堅牢無比な城を構えようとしていた。家系伝によれば「占部豊安は乱世に城とすべき所を探したが許斐山に及ぶ要塞が無かった」という。この時許斐山は大内氏の領地となっていたため、豊安は大内義隆に願い出てこの場所を賜った。かわりに自らの所領であった吉川庄三百町を代地として捧げることを申し出たので義隆は即座にこの要塞の地を豊安に賜ったという。豊安は大いに喜び、享禄2年(1529年)十月より土民を督励して堅牢無比な城を構え、また吉原に里城を築いて要塞を一層堅固にし、これに居城した。

城の完成を待っていたかのように翌年享禄3年(1530年)四月、大内義隆の九州攻め(少弐氏攻め)が始まった。豊安の嫡男(後に尚安)は永正17年(1520年)元服して豊治を名乗り、この時27歳になっていた。天文元年(1532年)九月大友方の宗像新四郎氏延が許斐岳を襲った。豊安・豊治親子はこれを退け、立花城を攻めて功をたてたという。これから先、大内氏から毛利氏の時代に移り宗像家が終わるまで、許斐城は宗像の砦として飯盛城とともに重要な役割を果たすことになる。

翌天文2年三月豊治は、黒川隆尚(宗像正氏)の一字を受けて右馬助尚安と改めている。この時宗像大宮司は氏続が継いでいたが、豊安親子は黒川隆尚(宗像正氏)に従っていたようだ。尚安は正氏(黒川隆尚)・宗像氏続の弟である氏繁の婿となっていた。

宗像家は当主一代の期間が社務職任期と重なっており、任期は大概短かく、中には一年又はそれ以下のこともしばしばあった。更に合算すれば数年になるが、断続的な場合もあって、一般の家の当主とは少し事情が異なる。代が進むほどに、不安定な時代が多かったからだろうか、占部氏は宗像家の家臣でありながら、大宮司との関係より大内氏との結びつきの方が強かったのではないかと思われる節がある。大内家の当主や嫡子の名の一字を与えられることもあった。占部尚安のように宗像氏当主より偏諱(へんき・上位者が下位者に諱(俗名)を一字与える事)を賜るようになったのも、正氏が黒川氏となって大内一族に加えられてからのことである。

河津氏について:当時筑前・豊前の領主は多くが大内氏に付属して御家人化していたが、宗像氏も大内氏に属するにあたり、その大方の武家領分が大内氏支配となった。大内氏は西郷(現在福津市)を糟屋郡として宗像郡から切り離し河津氏を筑前目代として西郷に置いた。天文元年宗像氏延が許斐山を襲った時、氏延は旧領を奪回せんが為に西郷に河津隆業を攻めたとある。河津隆業はこれを撃退。大内義隆から感状を受けている。河津隆業の頃は河津氏と宗像氏の間に主従関係はなく大内氏の御家人として同列に位置していた。しかし、立花城を中心とする大友方の勢力に対抗する為には単独では力が足りず、互いの協力が不可欠であった。飯盛山城・亀山城・許斐山城を中心とした防衛戦では両家一丸となって戦った。大内義隆は宗像家の将占部尚安の娘を河津隆業の子隆家に嫁がせ、両家一つとなって西の防衛にあたるよう命じている。

大内義隆の死

天文11年(1542年)尼子氏との戦で大敗を期して以来、挫折を知らなかった大家の御曹司義隆は立ち直るどころか、次第に政治に関心を失い武を遠ざけ京の雅を好んで陶ら重臣の反感を買っていた。お家滅亡の危機を憂慮した陶隆房が天文20年(1551年)九月、主君大内義隆に対して謀反を起した。この時黒川隆尚(宗像正氏)の跡を継いで山口にいた黒川隆像(宗像氏男)は、陶隆房の誘いを断り謀叛に加担せず、最後まで大内義隆に従った。落ち延びてゆく義隆に付き添い、義隆が大寧寺で自害するまで、共に守る重臣三名とともに義隆を守って終に討ち死にした。その後 宗像家では後継者をめぐって騒動が起こる。<=山田騒動>大友義鑑の圧力の下、大内氏を頼りに領地を守っていた宗像氏は、大内義隆の死によって後ろ盾を失うと同時に、相次ぐ当主の死によってお家存亡の危機に直面していた。

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