【桓武平氏系図】

桓武天皇─葛原親王┬高棟王・・・公家として京都に残る
                  └高見王―高望王┬國香─貞盛・・・
                        賜平朝臣姓├良兼─公雅・・・
                                  ├良将─将門・・・ 
                                  └良文(村岡五郎)┐
                                      ┌─────┘
                                      ├忠通(村岡小五郎)・・
                                      └忠頼(村岡二郎)┬将常
                                                      └忠常・・

高望王の関東入り

臼井(占部)家のルーツは桓武天皇にさかのぼる。京の都平安京を建てた天皇である。 天皇家の系図を見ればわかるが、その嫡子の数の多さにはただただ驚くばかりである。系図にあがっているだけで桓武天皇の嫡子は30人以上。 その中の嵯峨天皇は40人以上。その中で天皇の地位につけるのはほんの一握りにすぎないから、ほとんどの子息は無位無官で生活も苦しかったらしい。 政界中央の権力争いの中にあって、親王が多ければ事が複雑になる。しかも藤原家独裁政権時代にあって、必要でない親王は中央から遠ざけられて出番もない。

ただし、皇族の血筋であるから地方に下れば尊ばれ、歓迎も受けることができたのである。それでこの頃盛んに親王の下向が行われた。 高望王(たかもちおう)は、寛平2年(890年)5月12日に平朝臣(たいらのあそん)姓を賜ったと千葉系図に記録がある。平(たいら)は、皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つであり、又朝臣(あそみ、あそん)は皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる姓であった。 (参照Wikipedia) こうして高望王平朝臣姓をうけ従五位下・上総介となって下向したのである。 (一般的には平朝臣姓を賜ったのは寛平元年・889年とされているようだが、手元にある資料には寛平2年となっている。「千葉系圖」とあるがいただいたものなので詳しくはわからない)

尚、高望王葛原親王の孫高見王の子ということになっているが、実は高見王が実在の人物かどうかに関しては定かでないらしい。高望王が実在していたことは確かであるが、 そこから上のつながりははっきりわからない。

千葉氏の始祖平良文

高望王(たかもちおう)下向当時の関東は、まだ未開な無法地帯であった。中央の支配も治安を守るほどには及ばず、この地方の豪族たちは自分で自分を護る以外になく武装せざるを得なかった。高望王の子孫達も、強い上からの支配が及ばない為に指導権争いや小競り合いが絶えず、官位、報奨、領地をめぐり一族の中ですら対立は絶えなかった。 千葉氏の始祖ともいわれる、高望王の子平良文(村岡五郎)も、将門と戦って領地を得たとか、兄の国香と闘ったなど、一族内で戦った記録が残されている。

良文村岡五郎を名乗ったのは、武蔵国大里郡の村岡或いは、相模国鎌倉郡の村岡に由来するといわれる。子孫は南関東一円に分布して勢力を持った。 千葉氏は桓武天皇高望王より、この良文を始祖としているようである。

平忠常

11世紀初頭頃、平良文の孫、平忠常は広大な私営田の領主となっていた。彼の官職は上総介とも下総介とも記録があるが、その勢力は上総・下総に限らず広範囲に及んでいた。 忠常は後に朝廷から、反乱者として追討を受け、数年にわたる戦闘の末に降伏している。忠常自身どこまで朝廷に反逆する意思があったのかはわからない。しかし地方役人など 相手にしないほどの力を持ち、勢力範囲を広げていく彼を、朝廷も関東の周囲の者たちもそのまま放っておくわけにはいかなかったのだろう。 しかし、この戦乱のせいで上総・下総などの地は疲弊しきってしまった。結局忠常は力尽きて降伏し、京に向かう途中で病死した。 彼の死によって幸いにも彼の子息たちは領地もそのままに一件落着となったが、荒廃から立ち上がるのは容易では無かったに違いない。

【平忠常以後の系図】

忠常─常将─常永┬常家(上総權介)─常時(明)─常隆─広常─良常
                ├常兼────┬常綱(匝瑳八郎)
                │(従五位下下総權介)
                ├常房(鴨根氏)├常廣(逸見八郎)
                ├頼常(原氏)  ├常安(臼井初代)┬常忠(常則)─常好・・・
                │            │              ├常久┌安常
                │            │              └常有┴胤安・・・
                │            └常重──常胤───胤正─成胤─胤綱
                │      (従五位下下総權介)  (従五位下千葉介下総守護職)
                │        ┌  ←┘常重、伯父の常晴の養子となる
                ├常晴(時)┴常澄─広常─良常
                ├常義(村澤氏) 
                ├常遠(安西氏)
                ├常継(大須賀氏)

兄弟順不明:順不同
常家に関しては不明なこと多く、子がいなかったともいわれ、弟常晴が
後を継いだとも言われているので、常時(明)と常晴(時)が同一人物の
可能性もある。常家が常兼の子になっているものもあるが、長岡氏の
年表記録には「1104年に長南綾子が千葉常家の室となった」との
記録があるので年代からして常兼の兄説を取った。

千葉氏と臼井氏

千葉氏の名は千葉庄に由来するのであろうが、どの代より千葉氏を名乗ったのかについては諸説あるようだ。 忠常の子常将千葉小次郎という名でもあったので、常将を最初とするもの。常将の子常永とするもの。或いは孫の常兼千葉庄の検非違所(けびいしょ)であり、千葉大夫(だいぶ、たいふ)を称したので 常兼からとするもの...色々である。

忠常の子孫たちは、忠常の一件ですっかり荒れ果てた地を再建し、又新たに開墾しながら、関東一円に再び勢力を拡大した。上記の系図だけを見ても、兄弟が同じ姓を名乗るというより、土地を開墾しながらその領主となり、新たに姓をたてて独立している。

上記の系図は、兄弟の順、支流本流の区別がさだかではない。先祖伝来の土地を兄弟で分け合い、一族として身を寄せ合って生きた時代ではなく、各々が自立開拓して行く時代であったから、独立領主としての意識が強く、同族としての連帯がどの程度あったのかはわからない。

臼井家も忠常から4代常安の時臼井庄から名字を取って始まった。場所は印旛沼の西南、今でいえば四街道市・佐倉市東部・八千代市の西北あたりだったらしい。印旛沼東側の台地沿いに住居を構えていたと言われる。現在残っている臼井城は14世紀に入り臼井興胤が築いたもので、最初に常安が住んだ場所ではない。

YAHOO地図より